小説

『綱』大前粟生(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

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 すごくタイプの男を見つけて、近づこうとしたらそいつが登りはじめたから、僕もそいつの隣の綱を登って、今、並んだところなんだけどさ、この66番の男、めっちゃくさい。
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 目の前に蜘蛛がいたんだ。照明はもうなくて、暗かったけど、それが蜘蛛だということはわかった。おれは蜘蛛の糸にすでにひっかかっていたから。で、潰したんだ、蜘蛛。そしたら、突然、金玉が縮んだんだ。あー、まじかー、落ちてるのかーって思った。綱がたぶん、切られたんだ。落ちるおれより早く、のたくった綱が、圧力がかかりすぎたシャワーホースみたいにおれをしたたか打ってきてさ、顔を。なんにも見えないんだけど。まぁ、それは照明がないからか。それとも、目が血で覆われてるのか、それか内出血か、わからないけど、おれ、背中から落ちてるから、床に落ちきったときには、背骨が砕けて、けっこうなとこから落ちたから、一回ちょっと、バウンドして、そしたら、折れた背骨とか、肋骨とかが、腹から飛び出してさ、死ぬと思う。それはたぶん、本当になる。だってけっこうおれは今、冷静で、なんかわりと多くを考えてるから、時間がこう、死ぬ前の、ゆっくりしたものになってて、さあ。
365+001
「それでさ、その男がいったんだよ」
「まさか『これがほんとの魚の目だ』って?」
「バカ、なんでオチを取るんだよ。人のアメリカンジョークは最後まで聞けよ」
「あ、じゃああんた、さっきの筆記でそれ書いたんだ」
「そうだよ。おまえはなにを書いたんだよ」
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 真っ白い床に血が広がっているのに、画面越しに見ているように思えてしまう。パニックになっている人たちもいるが、これは映画じゃなく、そんなに都合よくないので、パニックが感染して、自分たちで殺しあったりはしない。「おーい、だれかー、だれかたすけてくれー」と壁を叩く男のまわりには、三日月状の空白ができていて、男の叫びが、モノラルのように、霞がかって聞こえる。
088
 このテストで精子を選ばれて、それで人工的に着床したとするじゃん? それで童貞を卒業できたってことにしていいかな。
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 綱の上に猫がいる、黒猫がいる、眼と無数の歯をひらめかせている、丸々としていて、なんにもなかない。チッチッチ、と舌をならすと、音に反応したのか、丸まりはカッと、光るようにはじけていくが、ここにあるのは暗やみだ。はじけて猫の形じゃなくなった蜘蛛たちはまたそれぞれとしてもぞもぞと動いているが、何匹かが僕の綱の上にいる。蜘蛛たちは糸を伸ばしてぶらさげて、サーカスのように空を泳ぎ、また闇を渡っていく。近くで悲鳴が聞こえる。

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