小説

『人殺し』大前粟生(イソップ寓話集『人殺し』)

 あんたがヒトシを、人殺しを、ヒトシをあんたが、人をあんたが殺し、、ヒトシを殺し、人殺し、ヒトシを殺した、ヒトシを人殺した、人殺し。人殺し。人殺し。
 男はなんとか女の手から自分の腕を取り戻すと部屋から飛び出した。アパートのエレベーターのボタンを何回も連打していると、自室の扉が開く音が聞こえたので男は非常階段を降りる。息せき切ってエントランスまで降りたときに、ちょうど、エレベーターが開いてなかから女が現れる。男は悲鳴を上げて駆けていく。女もヒトシィヒトシィといいながら男を追いかける。ふたりは走るのに忙しくて気づかなかったが、実はヒトシはこの時点では息があった。だがもう手遅れだ。ふたりが大きなツリーのある道を走っている頃にはとっくに死んでいる。
 ねぇ、やっぱりさっき走ってった男女、気にならない? とレストランで夫との食事を終えた中年の女がいう。この女は看護師をやっていて、走っていた男と女がガラスで切ったような傷を負っていたことが気になっている。そうだな、追いかけようか、と中年の男はいう。この男は売れない作家をしているので日常の変なことや残酷なことが好きなのである。私のことである。
 男と女が走っていった方へふたりがかけていこうとすると、売れない作家の肩がヤクザの肩とぶつかる。ヤクザは肩がぶつかったら、いやぶつからなくても因縁をつける存在であるので、当然売れない作家に因縁をつけようとするが売れない作家は看護師の手を取って走り去っていこうとしている。ヤクザとしては追いかけたいところだ。休日を家族と満喫中の警察官がものすごい勢いで走るヤクザを見てこれはただ事ではないのではないか、と思って妻と子どもを残してヤクザを追いかけていくが、妻と子どもはたまったものじゃない。ヤクザなんかにクリスマスを奪われてたまるか。夫を、パパを取り戻さないと、と追いかけていく。ものすごい勢いで走る警察官の妻が抱えている男の子はあまりにもかわいく、ショタコンじゃなくても目で追いかけてしまうほどだ。ほら、今も芸能事務所のスカウトマンが男の子に目をつけた。お母さん、その子、CMに出してみませんか? すいません、今ちょっと急いでいるので。1分だけ、1分だけでよろしいので! といったスカウトマンは昔ふらふらしていた時期に友人から借金をして踏み倒しているのだが、そんな男に金を貸すほどの寛大な心と預貯金を持った人物であればクリスマスを恋人あるいは家族と楽しんでいてもなんの不思議はないし、実際そうである。彼は目の端にスカウトマンを見つけ、追いかける。家族も足跡みたいにその男のあとについてくる。おい、お前、ひさしぶりじゃないか。元気でやってるか? 急に消えちまって、なぁ、金に困ってたんだろう。もっと金が必要だったんだろ。だったらおれにいってくれればよかったのに。元気か? だれかいい人はいるのか? と彼はスカウトマンの親より優しい。とてもいい声で、男の言葉に胸が震えた小学校教諭の女がぜひ我が校でご講演を、ととても現実味のない話をしながら男とその家族を追いかけるのだが、この女は53歳で処女であって毎年クリスマスになると情緒がとても不安定になってしまって思ったことや思わなかったことをすぐ口に出してしまうのだ。

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