小説

『人殺し』大前粟生(イソップ寓話集『人殺し』)

 アパートから少し離れたところにあるパチンコ店に弟は入った。そのパチンコ店ができて一年ほど経つが未だに〈住宅街への賭博施設建設反対〉といった旗がそこかしこに掲げられている。だが、もう建ってしまったのだ。なんの意味もない。それに、このパチンコ屋は案外と玉の出がよくて、町内会長は入り浸っている。町内会長は〈海物語〉の台に座ってにやけているが、その隣に殺される弟が座り込んでくる。町内会長は少しビクッとする。町内会長は五十代後半で禿げていて、残った髪の毛は雛鳥のようであって、その彼がビクッとしたのを目の端に見て弟は少し機嫌がよくなる。だがすぐに機嫌が悪くなる。玉が出ない。よれよれのベージュのクロップドパンツの上にたばこの灰が落ちていく。
 男が観葉植物に水をやろうと思ってベランダに出ると、ちょうど隣の部屋の窓が開いて、姉がベランダにやってくる。男は声をかけようかどうかとても迷う。いきなり声をかけたらびっくりさせてしまうかもしれないなぁ、おれ、痰が絡まってたらどうしよう。男は今リビングに戻ろうとして窓を開けたらその音で自分がさっきまでいたことに気づかれるしいたのに声をかけなかったことが気持ち悪いと思われてしまうのではないだろうか、と思うが、かといってやっぱり声をかけたくはなくて、とりあえずその場にしゃがみ込んでみる。隣の部屋の姉は洗濯物を干している。ベランダ間の境にあるあの扉は、なんというのか、取っ手やノブもなく、扉というよりはついたてのような、非常時に蹴飛ばすことができるその扉は上下に少しの隙間があるのだが、女は扉の下から男の足がそこにあるのを見てしまう。ひっ。びっくりした女は少し後ろにのけぞってプラスチックのハンガーに頭をぶつけてしまう。痛くはないが、音が出た。男はしゃがみながらびくっとする。もしかしたら自分がここにこうやっているのがばれたのではないだろうか。そう思って頭を床に近づけて非常扉の隙間を覗いてみる。と、ちょうど隣の部屋の女もそうしていたところで、目が合ってしまう。あ、とふたりがいう。あ。
 町内会長がパチンコ屋を出ると、そのあとをつけるように殺される弟が店を出る。町内会長はパチンコの景品を胸に抱えていて、弟がついてくるのが気味が悪いので少し早歩きで通りを適当に折れ曲がりながら歩いている。弟の安いブーツがぺたしぺたしと地面を鳴らしている。ワンサイズ大きいのである。町内会長が振り向くと、弟がバタフライナイフをポケットから取り出して刃を舐めている。舌は黄ばんでいて、よくわからない白い滓がある。町内会長はゾッとして走り去っていくが、景品の袋から大きな林檎がこぼれ、弟の方に転がってくる。弟は林檎を踏み潰そうとする、が、潰れない。こんなことってあるだろうか。両足で体重をかけてようやく林檎は潰れるが、弟の顔は少し赤くなっている。横を通り過ぎた猫にリードをつけて散歩させているおばさんに向かって、なに見てんだよこらあ! という。猫が鳴く。

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