小説

『人殺し』大前粟生(イソップ寓話集『人殺し』)

 弟なんですけどね、と女がいう。あ、そうなんですか、と男はあからさまにうれしそうに、ちょっと大きな声でいう。高校を出てもう何年も経つのに進学も就職もしてなくて、実家から追い出されちゃったから私が面倒見てるんですけどね、という女はどこかうれしそうである。へぇ、そうですか。
 もろもろいい感じ? と弟がベランダに乗り込んでくる。ど、どうも、と男はいう。苦手なタイプだ。でもここでひるんじゃいけない。なんでクリスマスイブに引っ越してきたの? と弟はいう。あ、ひょっとして失恋だ。彼女と同棲してて、それで別れることになってふたりの思い出が詰まった部屋にいるままクリスマスを迎えるのがつらくて引っ越してきたんだ? いや、ちがうよ、と男は途端に無表情になっていう。ということは弟のいったことはほぼほぼあたっているのである。ちょっと、失礼よ、と姉はいうが、笑っている。弟はうしろから姉に抱き着くようにしていて、ふぅ、っと姉の耳に息を吹きかける。隣の部屋の男は苦笑いしかできない。あ、そうだ、お菓子用意してたんです、と男は引っ越しの粗品をもうこの場で渡してしまおうと、部屋のなかに引っこんでいく。と、ベランダに戻ってきたときにはふたりがケンカしている。というか弟が姉を殴っている。え、え、と、男は全身からすっと血の気が引くのを感じ、ベランダの手すりから乗り出した体を引っ込める。とりあえずいつでも警察に電話できるようにしとかないと、と思ってソファの上に置いた携帯電話を取ろうとしてまたベランダと部屋を分ける窓を開ける。と、その音に弟が気づき、あのさぁ! と太文字にしてしまいたいくらいの語気でいう。なんなの? 用意してたお菓子って。は、鳩サブレ。男は携帯電話を拾うのも忘れて鳩サブレを持ってベランダに引き返し、非常用扉の上の隙間から突き出す。弟が箱を掴んで姉をぶっ叩く。ぽかん。ぽかん。そのあと扉に姉の頭をぶつける。姉はなにもいわない。男はなにかしないとと思いつつも、なにかしたら自分が標的になるかもしれないので動けない。お兄さん、たばこ持ってる? 男は扉越しに弟にたばことライターを渡す。ありがとうございます、と女がいう。思い切って身を乗り出して隣のベランダを見てみると弟がたばこを吸っていて、女がその下で犬みたいに四つん這いになって舌を出している。弟が灰を落とすと間を置いて冷ましてから女がそれを舐め、ありがとうございます、という。それを見ていた男は気分が悪くなる。男が見ていることにふたりとも気づいていて、お兄さんもやる? と弟がいってくる。男はなにもいうことができない。おら、開けろよ、と弟が鳩サブレの箱を振りながらいう。女はなにも答えない。開けろって! 男にいっていたのだ。男は反射的に箱を受け取ってしまう。包装紙は丁寧に剥がした方がいいのか、それとも外国式に豪快に破いた方がいいのだろうか。弟は豪快なのを好みそうだな、いや、ちょっと待て、こういう奴はどこでキレるかわからないからここは無難に丁寧に包装を剥がした方がいい。ねぇまだー、と弟がいっている。男は焦る。あの、もうすぐ、と男がいうと、非常用の扉が殴られる。音の暴力が何度か続くとようやく鳩サブレの包装が開くが、サブレひとつひとつを包んだビニールは破るべきだろうか破らないべきだろうか。弟を見ると少し口が開いているので食べさせてもらいたがっているように見えなくもない。だから男はビニールを開けて鳩サブレを弟の口の前まで持っていった。ん、と弟がいった。鳩サブレを食べる音がする。

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