小説

『人殺し』大前粟生(イソップ寓話集『人殺し』)

 ひとりの男が走っている。町はクリスマスで、家族や恋人たちは笑い合い、独身だったり恋人がいない者は人びとを呪ったりまた自分はクリスマスとかそういう浮ついたことにはなんの関心もありません、ただの日にちじゃないですか、それがどうしたというのですか、でもまぁみんなが笑っているのはよいことですね私はなんとも思いませんが、という風にきらびやかなイルミネーションを見ながらあくびをしたふりをして普段通りに振る舞っているふりをしている。夜である。雪が降っていたらいっそうクリスマスらしいだろう。大きな歩行者用通路には大きなツリーがどっかと立っていて、たくさんの人が歩いていたり、道の左右に並ぶレストランや喫茶店で笑い合っている。ちょっとみんな笑いすぎじゃないかというくらいである。恋人たちは手を繋ぎながら通りの中央からグラデーションのように歩いていて、寂しい人たちは虐げられるようにして端を歩いている。と、ひとりの男が走ってくる。恋人たちの繋がれた手はまるで長距離選手を迎えるゴールのテープのようにあっさりと切れていくみたいに見える、ウケるー、というようなことをレストランの窓際の席から外を見ていた男女はいっている。そのようなことをいうのだから、なんとなくこのふたりは若い男女なのではないかと思いきや、そんなことはなくて中年の男女で、着ているものはみすぼらしくはないが別に高級というわけでは全然ない。今日がクリスマスだからちょっと高めのレストランで外食しようと思って、それで家にあるいい感じの服を着てきて、いい感じがその程度といった感じである。あ、後ろから女が追いかけてくる、とレストランに座っている中年の女はいったが、そんなことは見ればわかる。ひとりの男をひとりの女が追いかけている。遺族である。

 それで、走っている男は女の家族を殺したから、女が男を追いかけているわけだが、どこまで話をさかのぼればいいだろうか。元気な男の子ですよ、と看護師がいった。母親は26年後にこの男の子が人を殺すなんて知る由もなかった。
 さかのぼり過ぎたので、話は一気に男と女の家族が、つまり男と女の弟が出会う前まで飛躍する。今日のことである。
 ひとりの男が歩いている。男は中肉中背で、髭が生えている。髪の毛はもう何か月も切っていないようで、目は充血している。痩せて、青白い、職務質問におあつらえ向きの格好をしている。それが殺される男である。
 一方、その男を殺すことになる男は、その男と姉の女が住む隣のアパートに住んでいる。姉弟はふたり暮らしで、男はひとり暮らしだ。男は弟とは対照的な格好をしている。爽やかである。男はこの部屋に引っ越してきたばかりで、きのう隣の部屋に挨拶にいこうとしたが留守だったので今日いこうと、はじめまして、隣の部屋に越してきたものです、あのー、これつまらないものですが、と鏡に向かっていっているから、緊張しがちな体質なのだろう。隣の部屋では姉が掃除機をかけている。日曜日で、とても天気のいい午後である。

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