小説

『人殺し』大前粟生(イソップ寓話集『人殺し』)

 うまいじゃん、と弟がいう。その言葉に男はほっとしてしまう。あまいもん超うめぇ。もっとないの?
 男は青ざめてしまう。引っ越してきたばかりで、備蓄のお菓子やデザートなどないのだ。実は男の部屋は角部屋で、お隣さんは一件だけなので引っ越しのあいさつに用意したお菓子はもうないのだ。そしてさらに驚くべきことに鳩サブレだってわざわざ引っ越しのあいさつのために用意したものではなくて、前の家を整理していたときにたまたま出てきただけなのだ。どうしよう。男は甘いものがないとはいいだせず、あ、持ってきますね? といって自室に引き返していく。砂糖しかない。スティックシュガーしかない。ダッシュでコンビニにいってなにか買ってこようか。いや、それだと10分かかる。10分も待たせるわけにはいかない。どうしよう。男は無意識的にスティックシュガーを握りしめていて、袋の端を切って滝のような角度で口のなかに放り込む。甘い。男は鼻血が出そうになる。実際に出る。ベランダからは殺される弟の無邪気な笑い声や非常用の扉を叩く音が聞こえる。くそ、と男は髪を掻き毟りながらスティックシュガーを手に何本も握ってベランダに出る。もってきました、と緊張した声を出す。あ、サンキュー。てか、おれがそっちいくわ。これから仲良くなるためにお兄さんの部屋に上がっとくべきだとおれは思うし、アキラとテツオもくるってさ。あ、おれのダチね。アキラ、スマホのなかに超エロいの入ってんだよ? 非常扉の上の隙間は人ひとりが通るには小さいように見え、実際弟はそこを通れない。挟まっている。痛ぇって! といって体を後退させていく。姉が引っ張ったのだろう。あ、そっかそっかぁ、と弟はベランダを跨いで隣の部屋にいけることに気づいて、ベランダの手すりの上に立って、天井に手を押し付け支えとしながら足を半円を描くように動かし、隣の部屋のベランダの手すりに足をつけようとしているのだが、弟を殺す男はそのことに気づいていない。男が気づいていないことに弟は気づいていて、驚かせてやろうと思っている。
 男がふぅっとため息を吐きながら背中をベランダの手すりにもたせかけ、男の頭が弟の足にぶつかる。
 え?
 男と弟が同時にそういった。男は素早く振り返ったので、手を伸ばせば落ち行く弟を助けられたはずである。だが男は目の前の光景が現実の出来事ではなく、本や映画のなかの出来事であるかのように、弟が落ち、アパートの駐車場に頭から落ちたのをただ見ているだけである。
 え?
 と今度は弟の姉が外を見下ろす。弟にされたことのせいでさっきまでろくに立てなかったのである。メイクはくずれ、髪の毛は箒よりぼさぼさしている。ヒトシ?
 その声で我に帰った男は、あ、いや、その、という感じでどもる。ヒトシ、ちょっとヒトシィ! あんたが落としたんでしょ。ヒトシ、人殺し! 人……ヒト……ヒトシィ。そして女はベランダを跨いで男のベランダにやってこようとする。男は自室に入って、ベランダの窓を閉めて鍵をかけようとする。手が震える。くそ。だが、ちゃんと鍵をかける。ほっとしてその場に座り込む男を女はベランダの手すりの上に立ちながら見つめている。女が窓にダイブし、砕けるガラスごと男の部屋に飛び込んでくる。男は腰が抜けたようで尻をつきながら手だけを使って後ずさる。ソファに携帯電話があるのを見つけて、女に気づかれないようにそっと取ろうとするも、取れない。女が男の腕を取って何回も何回も、手が腫れあがるくらいにフローリングの床に叩きつける。その衝撃なのかなんなのか、スティックシュガーの袋が破けて手のなかから砂糖がこぼれ出してくる。

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