ベランダの床とは概してきたないものである。まして引っ越してきたばかりの男のベランダには昔の埃とか髪の毛がかたまりになって落ちていて、男の短髪にそういうのがついているよ、というようなことを姉がいう。あ、と男はいって、その体勢のまま手を頭にかけてみる。ほんとだ、ついてますね、と男はいう。姉の顔が心なしかさっきよりゆるんでいるように見える。男の丸メガネがちょっとずれていて、それがおもしろいのかもしれない。男は少し安心して、えっと、きのう引っ越してきた佐々木といいます、という。あ、どうも、市川です、と姉がいう。立ちましょうか。
ふたりは立ち上がって頭や服に着いた埃や髪の毛を払って、ベランダから身を乗り出す。こんな時期に? と姉がいう。見たところ姉は男よりも年下である。クリスマスイブに引っ越しなんですね、と姉はちょっとずけずけ聞いてくる。顔がいいから調子にのっているのだ、そうにちがいない。ええ、年を越す前にちょっといろいろとケリをつけたくって、と男はいう。空はいつの間にか薄い雲に覆われている。冷たい風が吹いていて、ちょっとコーヒーいれてきます、と姉がいう。あ、じゃあ僕も、と男がいう。ふたりともインスタントコーヒーをいれたのだが、男の方がお湯が沸くのが早かったので少しの間男はひとりでベランダで隣の部屋の女を待つことになる。雪が降ってくる。コーヒーの湯気が立ち昇っている。ちょっとなんだかいい感じ、と男はにやにやしている。窓が開く音がして、男が身を乗り出すと、女が大きなあくびをしている。ふたりは改めてなにを話していいかがわからなくて沈黙するが、どちらともなく笑い出す。しばらく話す。
爽やかそうな顔をしてこの男は知り合ったばかりの女が結婚指輪をしていないことや、相手を見るついでに見た女の洗濯物から男っ気がないこと(弟の洗濯物はちょうど扉で死角になって男には見えていない)や女の下着を見て、そして女が下着をベランダに干す女で隣の部屋の男に下着を見られても気にしない女だということによろこんでいる。すでにコーヒーはふたりとも三杯目で、男はたばこを吸い出している。煙と湯気がぶわぶわとベランダに満ち、ふたりの鼻は寒さで赤い。と、そこに殺される弟が現れる。よぉー、帰ったぜー、と女の弟はアパートの前の道から大きな声でいい、おかえりー、と女が笑いながらいう。その顔が男には見せなかった笑顔なものだから男はふと真顔になって、眼下にいる落伍者みたいな弟に会釈する。そいつだれよー。お隣さんー、引っ越してきたんだって、きのうー。そっかそっかぁ。