小説

『蜜柑の雨』柿沼雅美(太宰治『蜜柑』)

 私は今日なにもかもが嫌だった。これまで続けてきた仕事をこれから続けることが嫌であったし、自分の気持ちだけでは何も変えられない恋愛の先を気にするのも嫌であったし、30歳を超えて年をとっているわけではないけれどもう若くもない見た目や削れていく体力も嫌になった。そして職場の昼休みにTwitterで、好きなアイドルグループのフリーライブがあるのを見つけ、そのまま午後休を取って出て来てしまった。
 ほんの少しだけの期待を感じて、心を軋ませていた暗澹なものがやっと和らごうとしていたところに、女子高生が踏み込んできたのだった。
 彼女は、息を切らしてバッグとスマホを空いている座席に雑に置いた。物静かそうな外見とはズレた行動に私は彼女を見た。彼女と私の間に置かれたスマホには、さっきまで操作していたのかTwitterが表示されていて、彼女よりも数倍かわいく見えるアイコンと、ちゃんゆい、というアカウントが目に入った。
 ごろごろと音を立てて駅を出た電車内で、私は自分のスマホを取り出して、ちゃんゆい、@chan-yui、と検索した。彼女が使っているのと同じアイコンを見つけ、つぶやきをスクロールした。
 いまからフリーライブ、というつぶやきに、学校は? とリプライした。座席の上の彼女のスマホが緑色に光り、彼女がスマホに手を伸ばした。私は、やっぱりこの子がちゃんゆいちゃんなんだ、と思いながら、窓に目をやった。線路添いのマンションを見るたびに、目が進行方向とは逆に引っ張られていく。
 高3の受験生なので自由登校期間なんです、と両手を上げて笑う絵文字とともに、ちゃんゆいが返信をした。私は、そうなんだ受験生だけど楽しいことはしたほうがよし! と真面目に返事を書いた。ちゃんゆいはすぐに、ですよね! ありがとうございます、楽しんできます☆ とさらに返信をくれた。
 彼女をちらっと見ると、表情が柔らかくなっていた。両手の親指でぐるぐると早すぎる動きでスマホへ入力していく。私も手元の画面に目を戻すと、画面の中の色白で口と頬を赤く染め、顔のまわりをほんわか加工しているちゃんゆいのアイコンが、「蜜柑の雨が降るよ」と言っていた。ねぇ蜜柑の雨って何? と思わず彼女に直接声をかけそうになった。彼女は一瞬私を見て、気づいたのか気づかないのか小さく会釈をしたように見えた。

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