小説

『No Face』植木天洋(『狢(むじな)』)

 彼女が嬉しそうに頷いて、俺はとっておきの(軽バンド部の先輩に教えてもらった)カフェへ彼女を案内した。チェーンのコーヒーショップの倍はとられる価格設定だけれど、奢る覚悟で腹を決める。
 彼女は古びたソファに座って、珍しい魚が泳ぐ大きな水槽や、どこから買ってきたのかわからない微妙なビールグラスが並べてあるのを興味深そうに眺めていた。
 「なかなかアジがあるお店だね」
 「でしょ。お気に入りなんだ。穴場っていうか」
 実は来店したのは初めてだ。慣れた風にソファに肘をかけて、くつろいだ体を作る。カフェは正直言って少し不気味だ。アングラというか、そういった感じがする。ちょっと通な感じを出したくてチョイスしたが、これがどう出るか。
 彼女は楽しそうにインテリアを見て回って、驚いたり顔をしかめたり、すごく表情豊かだ。やっぱり、可愛い。モデルでもやってるのだろうか? 後で聞いてみよう。
 「何がおすすめですか?」
 「え?」
 「飲み物です」
 インテリアをひと通り見て回った彼女は、無邪気にきいた。俺はフリーズする。「ええと……」ともごもごと言いながら、メニュー表を引き寄せる。
 店長の絶賛オススメ・八丁味噌ジュース!
 「こ……これかな」
 「えー。味噌? 味噌のジュース?」
 「意外とイケるんだよ。常連は必ず頼むよ」
 マスターに聞こえないような音量で、胸を張って応える。じゃあそれ!っと素直に決めた彼女に合わせて、一緒に「八丁味噌ジュース」を頼んだが、本当にこれでよかったのか気が気じゃなかった。とはいえ、こういう時は店のオススメに従うに限る。
 「よく来るんですか?」
 「え?」

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