小説

『ジョバンニの弟』和織(『銀河鉄道の夜』)

「確かに誰にでもできることかもしれません。でも、それは今の君にできる精一杯のことなのでしょう?どうしてそれを恥じることがありますか?」
 カムパネルラは青年にそう言われ、自分の気持ちがよくわからなくなりました。今まで誰も、カムパネルラにそんなことを言った人はいなかったのです。
「君の苦しみは君だけのもので、君だけに与えられるものです。全て、おぼしめしなのです。不幸が訪れることがさいわいだと言っているのではありません。困難のない人生には何の価値もないということです。さいわいとは、立ち向かう心を持っていることだと、僕は思います。君は言いましたね、手に触れると、相手の気持ちがわかるのだと。それは僕にとってはとても難しいことでした。ですからそれは、君だけの力です」
「僕だけの力?」
 この人はなぜ、こんな不思議なことばかり言うのだろうと、カムパネルラはぼんやりと青年を見上げました。
「自分を消してしまいたいと思うことは罪なのです。それは自分のことしか考えていないということです。今だけでなく、君がこの先、生きて出会い誰かに与えるであろう何か、それを全て、世界から根こそぎ奪ってしまうということなのです。だから人には一人一人、生きる責任があります」
 そう言われ、自分がずっと死んでしまいたいと思っていたことを、この人は知っているのだと、カムパネルラは感じました。そして、ああこの人はきっと本当に兄さんの友達ではないだろうか、僕を助ける為に兄さんがよこしてくれたのではないかと思いました。
「カムパネルラ、笑ってください。君は自分の世界で笑顔を見ることはありませんが、自分が笑えば、それがどんなものか知ることはできます。笑顔というものは、意図せずとも人にさいわいを与え、自分を変えます。君の笑顔を、僕は待っています」
 青年がそう言うと、カムパネルラは何だか、その姿が遠くなっていくように感じました。それが自分の涙のせいなのかと考えているうちに、辺りが白く濁っていきます。
「一つお願いがあります。僕、ジョバンニにさよならを言い損ねてしまいました。だから彼に伝えて下さい。ありがとう、君といて楽しかった。さようなら、と。それからカムパネルラ、君はちゃんとお兄さんに愛されていますよ。君が切符を持っていたことが、その証です」
カムパネルラは遠くなる景色に、慌てて手を伸ばします。
「僕はここでいつまでも、みなの、そして同じ名を持つ君のさいわいを願っています」
 青年の声が、遠ざかりながら響きました。

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