小説

『ウサギ!とカメ』泉谷幸子(『ウサギとカメ』)

 と、またウサギの脳裏に何かが湧いてきました。ん?そんなことをいつかどこかで聞いたような気がする…。なんだっけ?カメに追いつくとか追いつかないとか。あ、そうだ、思い出した、アキレスとカメだ。アキレスがどんなに進んでも、カメには追いつけないという、あの話だ。ゼノンのキベンと言われている…。ウサギは詭弁が、虚偽の論法であることまでは知りません。
 ウサギは考えます。たしかギリシャとかガリシャとかいう異国の話らしいが、アキレスという俊足の神様でもカメを追い抜くことができないらしい。でも、本当にそんなことがあるだろうか?げんにオレは、神様でもなんでもなく一介のウサギに過ぎないが、目の前にいるこのカメをあっさり追い抜くことができる。間違いなくできる。神様にできなくて、オレにできるなんてことがあっていいものなんだろうか?神様の神業を、オレごときが上回るようなことをすれば、それは神様を冒涜することにならないのだろうか?ウサギはカメを見つめながら、忙しく頭をはたらかせます。
 いやいや、ウサギがカメを追い抜くことが神様への冒涜だなんてことがあるはずがない。そんなことで神様の怒りをかうなんて、ナンセンスもいいところだ、とウサギは考えを振り払います。アキレス神の件はどうせ異国のことだし、オレの知ったこっちゃない。そして、思い切って追い抜くべく、後ろ足をぐっと踏ん張ったその時です。なんだか頭にひっかかる神様という言葉。
 ウサギは足の力を抜いて、その言葉がなぜ引っかかってきたのかを考えます。神様、神様…。そうそう、思い出しました。ウサギの遠い遠いご先祖様のお話を。因幡の国での出来事でした。ご先祖様がワニザメにひどいことをしたため襲われ、ぼろぼろになってしまっていたのを救ってくださったのは、大国主神であったという話。ウサギの世界では神様を敬うよう、ゆめゆめ逆らわぬよう、先祖代々固く言い伝えられてきたのでした。
 と、いうことは、やはりオレがカメを追い抜くのは神様への冒涜ということになってしまう、とウサギは思いました。因幡であろうと異国であろうと、神様は神様です。カメを追い抜くことで、その手前におられる仰ぐべき神様をまたいで追い越してはいけない。ウサギは決してカメを、そして神様を、追い抜いてはいけないのです。
 ウサギはすんでのところで思いとどまり、はあはあと息をしました。とんでもなく恐ろしいことをするところだったのです。もしカメを追い抜いてしまっていたら、と考えるだけで、どっと冷や汗があふれ出てくるのでした。そしてウサギは力なくのろりのろりとカメの後をついていきました。

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