試着室の中は自分だけの世界。目の前の鏡も、光も、自分のためだけのもの。わたしはうっとりと鏡を見つめた。次に背中を鏡に映し、振り返って鏡を見た。
「いかがですかー」
カーテン越しの甲高い店員の声がわたしを現実に引き戻し、途端に恥ずかしくなり、慌てて返事をする。
「大丈夫です」
そのままワンピースと横に置いてあったシルバーのハイヒールを手に持って、レジに向かった。一万円札を数枚出す指先が緊張で少し震える。
普段はファッションにお金をかけない方だから、お金を自分の遊びのために一気に使うのははじめてだった。
そのまま着ていきます、と言う予定だったのに、気恥ずかしさが勝って、わたしは駅のトイレで着替えを済ませた。さっきまでの服はロッカーに預けた。
ヒールを履くのは、初めてだった。先につれて細くなるハイヒールに足を押し込んだ。恐る恐る足を前に進める。歩くのが不恰好じゃないかと、なんどもショーウィンドウを見て、丸まった背筋をピンと伸ばした。
目当てのクラブにたどり着く頃には、すっかり日がくれて、夜が来ていた。
お前のような人間の来るところじゃない、そう入口で追い返されるのではないかと緊張で息苦しくなった。
だが、そんなことはなかった。入口はずっと開かれていたのだ。ただ、わたしが尻込みしていただけで。
足を一歩踏み入れると、鼓膜に響く音楽と点滅する光に、宙を漂っているような感覚に陥った。
人混みと熱気に飲まれつつ、わたしはカウンターまで足を運び、知らないカタカナの名前のお酒を注文し、喉に流し込んだ。
会場の熱気のせいなのか、初めて含んだアルコールのせいなのかわからないが、わたしの顔がかっと熱くなった。
人の流れに乗って、前に進んでいくと、男の肩が勢いよくぶつかり、ホールに倒れこんだ。グラスを落とすまいと、わたしはグラスを握りしめ、膝から床に落ちた。
男は手を伸ばし、わたしを抱き起こすと「大丈夫?」と馴れ馴れしく、肩に手を置いてきた。