十歳になる頃には、その頃の僕よりもずっと難しい本に取り組んでいた。本棚をのぞくと、小説だけではない、歴史や生物学・・・とにかくありとあらゆるジャンルの本がそろっている。
「作文でえらばれたんですって」
妻が誇らしそうに言った。
「僕、小説家になるよ」
息子は願望ではなく決定事項のようにそれを口にした。
「小説家なんてのは、選ばれた才能のある人しかなれないんだぞ。万一なれたって、食っていけるのはひとにぎりだ。アルバイトしているほうが楽っていうくらいだ」
親なら子供の夢を応援するべきなのに、ついそんなことを言ってしまう。
「それなら、売れればいいんだね。サラリーマンよりずっと稼ぎはいいし元手はいらないし、頭ひとつでなんとでもなるからどこにいたっていい。僕、これからどんどん書くよ。なんたって僕にはまだ時間がたんまりあるんだもの」
それは幼くて無鉄砲のようでいて、どこか子供の言葉とも思えない。
きらきら輝く目を見ているうちについ顔をそらしてしまった。でも彼がこちらの顔をじっと見ているのはわかっていた。耐えられなくなってドアをあけて廊下に出た。すぐに悪かったと思って振り返った。しかしそこに息子の部屋のドアはなかった。目の前にあるのは緑色のドア。いつの間に塗り替えたのか?いや、そんなはずない。入るときに目にしたのは息子の名前の木彫りのネームプレートがかかったドアだった。
「みどりいろ」
ふと、つぶいていた。
「入ってもいいぞ」
聞き覚えがある低い声が答える。僕はドアを開けた。
フランス窓が風を通している。壁には作り付けの棚。
そうだ。
僕は結婚なんかしていなかった。もちろん子供もいない。あれからずっとこのビルの中にいたんだ。家庭だと思っていたものも息子もこのビルの別のドアのなかにあっただけだ。ノートを探してあちこち歩いているうちに、とんだ寄り道をした。でも、またこの部屋に戻ってきたんだ。