小説

『ドアの声』あおきゆか(『塀についたドア』H・G・ウエルズ)

 生活はおかまいなしにチクタク続くのに、一瞬でも途切れたら僕の熱は冷めてしまうのではないか。
 ビルを通り過ぎ取引先に向かいながら、もう小説からは身を引こうと決心していた。
 ふん。笑っちゃうな。何が身を引く、だ。小説家でもなんでもないんだ、僕は。結局、いまだに一作だって書き上げていないくせに。
 それきりノートブックを開くことはなくなった。本も読まなくなった。

 契約は無事まとまって僕は課長に昇進した。取引先で知り合った女性と結婚し、すぐに子どもが生まれた。その子が三歳のとき、一晩行方不明になるという事件が起きた。部屋の中にいたはずが、妻が見に行くとどこにもいない。家じゅうを駆けずり回って探した。警察に通報しようということになったとき、また部屋に戻っていた。
「どこに行ってたの」
 妻が子供の肩をゆすぶって聞いた。
「ぼく、みどりのとびらのおへやにいたの。そこにぼくの好きなものがいっぱいあったんだ」
 息子はつたない言葉で語った。
 ドアの向こうには、おもちゃやおかしがたくさんあったと言う。
「えほんもたくさんあった。それ、ぜんぶよんだよ」
「あら、でもまだ字も読めないのに」
 妻が不思議そうな顔をする。僕はその横で黙っていた。
「この子、才能があるのかしら」
 緑のドアだろう。この子も見つけたのか。
 なんだか、もやもやする。自分は何十年もかかったのに、この子は三年で見つけてしまった。自分ができなかったことをいつか息子は簡単に成し遂げてしまうかもしれない。そのとき素直に喜べそうにないと思うと恐ろしかった。

 字を覚えると、すぐに自分で本を読むようになった。
「たまには外で友だちと遊びなさい」
 僕は息子に言った。
「でも、友だちなんかいないんだ。本が友達だよ」

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