小説

『ドアの声』あおきゆか(『塀についたドア』H・G・ウエルズ)

 だが、それから僕はまた本を読むようになった。
 あの部屋にいたときのようにはいかずに、一冊読み切るのに一週間かかることもあったけれど、それでも徐々に読書のリズムみたいなものを思い出していった。通勤電車の中で、昼休みの食堂で、風呂で、寝床で、どこででも読んだ。例のアザラシの本も見つけた。アザラシが寝そべっている姿になぜか涙がこぼれた。
 昔書いたノートを押入れから引っ張り出してみるとアイデアより余白のほうが多い。続きを書き始める。つまらなくたってなんだって誰が読むわけじゃない、格好つけるな、そう自分に言い聞かせながら、一行、また一行と書いた。
 以前は仕事から帰ると疲れて寝てばかりいたのに、今は暇さえあればノートに向かっている。眠りそうになると必死にノートを探し回ったことを思い出して、顔を洗ったりコーヒーをがぶがぶ飲んで持ちこたえた。あんな焦燥感はもう二度と味わいたくなかった。
 あのビルにも、再び行ってみようとした。
 駅の名前が思い出せないので反対方向の列車に乗って適当なところで降りるのだが見つからない。ありふれた景色だったが、それにしたってまったく同じ景色なんてものはひとつもない。

 一方、会社では久しぶりに大きな契約がまとまりそうになっていた。
 不思議なものだ。少しも身を入れていないのに僕の業績は上がる一方で、この契約がまとまれば出世は間違いなしだと課長に言われている。僕が昇進すれば課長は部長になるのだ。
 契約の日に取引先に向かう途中、ふと見覚えのあるビルを見つけた。三角錐。コーヒーカップの絵が描かれた看板。集合ポストにはナカノ内科。
 実を言えば、ずっとこんなふうに偶然見つかるのではないかと思っていた。でも今は、寄り道している場合ではない。帰りに寄ればいいじゃないかって。いや、それじゃだめなんだと思う。今でなければあの緑色のドアは現れないのに決まっている。
 何もかも不条理だと思う。
 もっと小説に時間を割きたいけれど仕事を放り出すわけにはいかない。夜になると眠たくなるし、飯を食ったり歯を磨いたりしなきゃならない。

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