小部屋をのぞいてみたが、誰もいない。
そちらには本棚はなくて、引き出しがひとつだけついた木の机があった。
僕はまた大きな部屋に戻った。本棚にはどうしてか、僕の好きな作家の本ばかりがずらりと並んでいる。棚からいちばん好きだった作家の本を一冊ぬきとるとページをめくった。しおりがはさまっている。その最初の一行を目にした途端、すべてを鮮やかに思い出した。まるでさっきまで読んでいたみたいに。
文字を追いかけているだけなのに、誰かの頭のなかに吸い込まれるようなあの独特の喜びが体中に満ち溢れて鳥肌が立った。あっという間にその本を読みきった。次の本に手を伸ばすと床の上に寝転んで読んだ。一冊また一冊と読み続け、気がつくと棚にあった本をすべて読みつくしていた。そんなわけあるか、と言うだろうけど、ほんとうなのだ。棚の本を見渡してみても、一行一行がくっきりと頭に残っているのがわかるくらいだ。
僕は子供のころから本が好きだった。
やがて自分でも小説のようなものを書いてみたいと思うようになった。しかしいざ書こうとすると、いったい何をどう書けばいいのかわからない。野球なら素振りをしたりキャッチボールをしたりすればいい。勉強ならひたすら参考書を解けばいい。しかし小説というのはどうやればいいか。ただ、ノートにむかって心象風景のようなものを書き散らしているしかない。才能がないとあきらめるほどの努力にも到達できずあきらめてしまった。
それ以来、本に向かってもなにか心が濁ってくる。こんなものどこがいいんだと冷笑してみたり、とてもじゃないが自分には書けないと肩を落としたり・・・。
大学に入るころにはバイトやサークル仲間と飲み歩いたりするのが忙しくなり、本とも縁が切れてしまった。
見上げると、本棚の中身がすっかり入れ変わっていた。
読んだこともなければ本屋で見かけても素通りしてきたような本が並んでいる。哲学、経済、宗教、歴史、民俗学。どれも学問の本だ。ほかにもスポーツ、映画、落語、料理のレシピまである。なんだかここだけでひとつの宇宙のようだ。
てきとうに一冊引き抜いてみる。ゾウアザラシの写真集だ。もし僕が本の世界と縁を切らなかったら、いつかはこんな本を選んだのだろうか。