小説

『ドアの声』あおきゆか(『塀についたドア』H・G・ウエルズ)

 課長がデスクから駆け寄ってきた。
「きみ、大丈夫か」
「めまいがするんです」
「顔が真っ青だぞ」
 てっきり体調管理がなっていないとかなんとか言われると思ったのに、課長の声はほんとうに心配そうだった。
「今日はもういいから帰りなさい」

 早退の許しを得た僕はとぼとぼと駅に向かった。朝と違い電車はがらがらだ。誰も座っていないシートの真ん中に崩れるように座ると、早起きしたせいかすぐに睡魔がやってきた。うとうとしながら、いくつか短い夢を見たようだ。はっとして目を覚ますと、車掌が聞いたことのない駅の名前をアナウンスしている。窓の外には見覚えのない景色が流れている。どうやら反対方向の列車に乗ってしまったようだ。あわてて電車を飛び下り時刻表を見ると、驚いたことに次の列車が来るのは一時間も先だった。
 いったいここはどこなんだ。ホームには売店もなければ屋根すらない。
 ―これなら会社の机でうなだれている方がましだったな。
 盛大なため息をつくと、僕は乗り越し分の清算をして駅を出た。

 昼間のせいだろうか。駅前は閑散としている。
 コンビニ、不動産屋、フラワーショップ、歯医者。開店前なのかそれとも閉店してしまったのかシャッターを下ろした店がいくつかあるだけで、休めそうな場所はどこにもない。小さなマンションの公園で二歳くらいの子供と母親がベンチに座っておやつを食べている。いっそここで休ませてもらおうかと思っていると、歩道に折りたたみの黒板が立てかけられているのが目についた。
 ―コーヒー、手作りケーキ、サンドイッチあります。この下、地下一階。
 チョークで書かれた文字の下には、正方形に切られたサンドイッチと湯気の立つコーヒーカップのイラストが添えられている。顔を上げると、目の前に細長くて屋根がとがった三角錐のかたちをしたビルがあった。
 考えてみると、朝から何も食べていないのだ。

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