小説

『ドアの声』あおきゆか(『塀についたドア』H・G・ウエルズ)

 引き出しを開けると、ノートブックがある。
 今度は真っ白で一文字も書かれていない。寄り道のおかげかもしれない。はやく・・・はやく書こう。たぶん自分は何ごとにもこだわり過ぎたんだ。いつだってどうあるべきかという形ばかり追いかけて、それが文章にも出ていたのかもしれない。
 とにかく仕上げることだ。これが仕上がらないと僕は死ねない。僕の中にあるものが完成しない。どろどろの内臓を持って生きていくみたいになってしまう。

「閉めてもいいぞ」
 ドアの声がした。振り返ると緑のドアが開いたままだ。僕はドアを閉め、ノートにむかった。

               ※

「あのビルには仕事で?」
「いえ、違うと思います。あそこは、わが社の仕事とはまったく関係がありませんから」
 聞き込みにきた刑事はメモを取りながら、首をひねった。三日前、ビルの一室で死んだ男は一冊のノートブックを抱えていたほか、何も持っていなかったのでここにたどり着くまでにしばらくかかってしまった。対応に出た課長だという男は、はじめは男が無断欠勤をしたと言って憤慨していたが、死んだと伝えると途端に真っ青になってしまった。
「あの日は朝から具合が悪そうだったので彼に早引けするように言ったのですが・・・。こんなことなら、私が直接病院に送るべきでした」
「彼はなぜあんなところにいたのでしょう」
「さあ、わかりません。彼の自宅とは反対方向です。刑事さん、あのビルは一体何なのです?どうして彼が死ぬようなことになったのですか」
「なんでもあちこちに、ひどい欠陥があったそうですよ。壁には違法の塗材が使われていて、支柱のコンクリートがもろかったとかで傾きがひどくて、頭痛や吐き気、幻覚を見るものまで出たらしい。だがそれは長いことあそこにいた人間だけです。彼みたいに外からやってきて一晩いただけでどうこうなるようなことではないらしいんだが・・・まして死ぬなど」
「死因は何なのです?」
「それが、はっきりせんのです。ただ、ひどく痩せていて何日も寝ていないような様子だったとか」
「そうですか・・・」
「ところでこれは、彼の遺品です」

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