小説

『汝自身を知れ』柳氷食(ギリシア神話『変身物語』)

 「汝自身を知れ」という箴言を、テイレシアスは思い出していた。デルフォイの神託所の入り口に刻まれた、初代の巫女がアポロンから受けたとされる託宣である。予言の力など、自分には過ぎた、また、アポロン自身が自分にそう言ったように、必要のないものだったかも知れない。少なくとも、垣間見た未来に心がどうにかなってしまいそうなのだから!
 幻視が終わり、一切が暗闇へと戻ったとき、ようやくテイレシアスは項垂れるように頭を垂れて、ゼウスに申し訳程度の謝意を示すことが出来たのであった。

 それから季節は一巡りした。
 一度は手にしたことを後悔した予言の力であったが、テイレシアスはそれを他人のために用い続けたことによって、ボイオチアに不朽の名声を築いていた。迷える市井の者達に未来の出来事を的確に述べ伝え、その謝礼金で生計を立てていたが、デルフォイの神託所のように、街の統治者が意見を仰ぎにやってくることもあった。自分に過ぎた力というわけでもなかったようだと、テイレシアスは評価を改めた。
 アポロンとは相変わらず関係を続けていた。かの神はテイレシアスが盲目になってからも、彼に対する扱いを変えることはなかったし、自分と同じ力で名声を築いている恋人のことを誇らしげに思い、以前よりも一層激しい愛を注いですらいた。
 しかし、テイレシアスの方は暗澹たる思いに苛まれない時などなかった。アポロンの腕の中にありながらも、やがて来ることが定まっている未来への不安を捨てることはできなかった。自分が捨てられるのは一体何時のことなのだろう? 一体相手は何処の誰なのだろう? 
 それでも、彼はアポロンの元を離れずにいた。神が人間の恋人に飽きるのは勝手だが、人間が神を裏切るのは、あってはならないことだったからである。何より、テイレシアスの恋情は、未だ衰えるのを知らないどころか、薪をくべられた暖炉の炎のように、ますます燃え盛っていた。自身に起こりうる悲劇を知っているからこその焦りが、一層彼を燃え立たせていたのに違いなかった。
 あるとき、一人のニンフが、河の神との間に玉のような子を産んだ。赤子の頃から父母譲りの整った容貌をしていたその男児は、老若男女問わず愛され、ナルキッソスと名付けられた。
 その子供の母親が、テイレシアスの元を訪れたことがあった。
「世に名高きテイレシアス様、我が子は老年まで生き長らえましょうか」
「どうだろうか。少し待つと良い」
 母親に抱かれた赤子を前にして、テイレシアスの脳裏には、鮮明な情景が浮かび上がっていた。

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