小説

『汝自身を知れ』柳氷食(ギリシア神話『変身物語』)

 一人の少年が、青葉生い茂る山中の泉の縁に腰を下ろし、水面を憔悴しきった表情で見つめ続けている。彼は、どうやら水面に映る己の鏡像を恍惚と眺めているらしかった。自身に焦がれるあまり、こけてゆく頬、やつれていく体……。それがナルキッソスなる赤子の行く末であることに、微塵も疑いはない。テイレシアスが見透した運命とは、将来、それもかなり若いうちに、行き過ぎた自己愛ゆえに滅びるというものだった。
 何といううぬぼれやなのだろうかと呆れながらも、テイレシアスは自分自身に陶然としてしまう程の美貌とは、如何ほどのものであるのだろうと興味を持った。心眼を凝らして、少年の姿を繁々と眺めやった。
 水面に吸い込まれた瞳は、夏の万緑よりもなお深く、そして瑞々しい色だ。その巻き毛は金糸のように薄明の中で仄かに輝いている。寝食を忘れたせいでやつれ蒼白くなってはいるものの、肌は絹の艶やかさときめ細やかさを残している。そしてそのかんばせはこの上なく整ってはいるものの、何処か高慢ちきで、くしけずった氷のように、冷たく鋭い……。
 テイレシアスはあっと声を上げそうになった。それは嫌という程“見覚え”のあるものだったからだ。かつて幻視した、アポロンの心を奪い去る定めの、あの憎き美少年!
 彼の胸は震えた。驚きと、ある種の感動とに。何ということだろう、暗闇しか映さない自分の瞳の前には、自分の将来の恋敵がいるのだ! 
 アポロンは少年に恋い焦がれ、少年は自身に恋い焦がれる。アポロンを待ち受けているのは、数知れず体験してきた、悲劇的な結末に他ならない。己の運命について何も知り得ぬ者を救う役割を担っている予言者としては、少年のため、そしてアポロンのために、この赤子は「己を知らないでいるべきだ」という助言をすべきなのだろう。
 だが、今やテイレシアスは予言者であるよりも先に、独占的ですらある、アポロンの恋人だった。
 ――これ程までに誠実に長年尽くしてきたあなたの恋人を、あっさりと見捨てるアポロン様! 貴方様がはっきりと仰ったのを覚えておりますよ。「私はお前を変わらず愛し続けると約束しよう」と仰ったのを! 
 自らの言を違えた神の新たな恋が破滅の道を辿るように、偽りの予言をしてやろう。テイレシアスの中に怒りと共に、むらむらと邪な思いが湧き上がってきた。
 しかし、彼はしばし逡巡した。予言者としての良心が咎め立てたのだった。越えてはならない一線を踏み越えてしまっていいのか。自分が述べたことがたとえ偽りだとしても、何人たりともその真偽など疑いはしない。だが、それは自分を信頼してくれる全ての者を裏切る禁忌なのではないか。

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