小説

『汝自身を知れ』柳氷食(ギリシア神話『変身物語』)

 二柱の神は近くを通ったテイレシアスの存在を見咎めると、彼を手招きした。
「のう、ヘラよ、此処はそこのテイレシアスに結論を出してもらおうではないか。どのような答えが出ても、我々は一切抗議しない。神々にさえ、両方の性を体験している者はいないのだからな。それで良いだろう、ヘラよ?」
「ええ。いつまでも埒があかないものね。……これ、テイレシアス。少しばかり聞きたいことがあるのですが」
 その内容は、いささか驚くべきものだった。
「男と女、両方の性を知っているお前に訊こう。男の悦びと女のそれは、どちらの方が大きいのだ?」
まだ日が天高く昇っているうちから繰り広げられるあけすけな話題に、テイレシアスは少し赤面した。そして、女として初めてアポロンに対して体を開いたときのこと、そしてその後も幾度となく重ねた糖蜜のような時が自然と思い出され、彼の顔は更に赤くなった。確かにあの悦びは何物にも代えがたい。男に戻ってしまってからは、女性が羨ましくてたまらなくなるほどだった。「女」と答えると予言の力が手に入る――ということもあって、テイレシアスは自身の経験から率直に答えた。
「女性の方が、男性の十倍は快楽が強いと存じます」
 そう告げると、ゼウスはにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて妻の顔を眺めやった。一方のヘラは、みるみるうちに顔を険しくし、柳眉を吊り上げて烈火の如く怒りだした。
「……何ですって? それじゃあ貴方が乳繰り合っている女たちは皆……私の知らぬところで、そのような激しい快楽を貪っているというの……?」
 嫉妬による怒りの矛先が向けられたのは、不幸にもテイレシアスの方だった。妻であるヘラにさえ、最高神である夫に罰を加えることは許されなかったからだ。瞬きをする間もなく、テイレシアスの視界は暗黒に覆い尽くされ、一片の光さえも見ることは叶わなくなってしまった。
 ゼウスは不当な仕打ちを受けたテイレシアスを哀れに思い、感謝と謝罪の意味を込めて、一つの力を彼に授けた。
「ヘラよ、癇癪にも限度というものがあると常々言っておるだろうに。それに、お前に対してもいつも良くしてやっているではないか……。テイレシアスよ、済まなかった。神のしたことはどんなことであれ、取り消せぬ決まりがあるのでな。代わりに運命を見る力をお前にやろう、それでせめてもの償いとしよう」
 テイレシアスの視界が、瞬く間に柔らかな光に包まれた。羊皮紙に絵を書き綴っていくかのように、鮮やかな色合いをした風景が徐々に現れ始めた。西の地平に沈みつつある陽に照らされた、何処かの森中だ。四方は勿論、上方も天蓋のように覆い尽くす木々の葉は、目に染みる程の赤で染め上げられていた。濃い緑と土の匂いが、鼻孔をくすぐる気がした。

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