小説

『桜桃の色の朝陽』柿沼雅美(『桜桃』太宰治)

 「倒産とかしたらマズイからとりあえずやるけど、仕事が増えるだろうなぁ」
 「そっか、それは大変だね」
 私が言うと、聡史は、だろぉ、と空になった缶を持ってきた。
 えれな寝たの? と聞く聡史に、寝てるんじゃないかないつ起きるか分からないけど、と言うと、聡史の手がシャツの胸元に滑り込んできた。
 「ちょっと、今洗ってるから」
 やめてよ、という言葉を飲み込んで聡史に振り返った。
 「いいじゃん、あとで」
 このあとで、というあとには、洗濯物をたたみ、持ち帰って来た保育園のものを洗い、連絡帳に目を通し明日予防接種をするもしくはしたという旨を書いて、可燃不燃のゴミをまとめ、明日の朝ごはんを考える、というものが待っていることを分かっているんだろうか、と頭に浮かぶ。
 「だーめ、今日も大変だったんだから早めに寝なきゃだめだよ、隣にいると喜ぶからえれなの隣で寝てあげて」
 「えー、っつーかもうまる一か月はしてないよ? いいの?」
 よくないけど、と私は笑顔をつくって、聡史に向けて指で水を弾いた。聡史は、冷たっ、と言って空き缶で私の胸をコツンと押した。聡史は、しょーがねーなー、シャワーあびてえれなと寝るかー、とシャツを脱ぎながら洗面所へ向かった。私はその背中に、大事な女が二人もいると大変ねー、と笑っているような口調で言った。
 聡史は、難しいことや気まずいことに直面すると冗談めかしたことを言う。耐えられないのだ。えれなの意味の分からない泣き笑いにも私の愚痴や落ち込みにも。だから、つとめて楽しくしなければ一緒に乗り越えてはくれないことを私はこの数か月で学んだ。
 聡史に手を突っ込まれた胸元を見下ろしてみると、胸の谷間にうっすらと汗をかいていた。小さい水滴が浮かぶようにくっついていてまるで涙のように見えた。
 

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