小説

『桜桃の色の朝陽』柿沼雅美(『桜桃』太宰治)

 「うん、まだまだ母乳を欲しがる時は多いけど、離乳食もよく食べてくれるし、マグマグ通り越してコップでジュースも飲めるんじゃないかっていうくらい」
 「へー」
 「スパウトからストローになるのも早かったし」
 「ふーん、へー」
 「でね、えれなも最近自分が女の子の自覚があるみたいで、保育園でも他の子がリボンとかついてる服着てると、これ着たいって先生にやるんだって。そのうちさ、映画の女王のドレス着たいとか言い出したりするのかな」
 最後の肉を口に入れると、聡史はビールの二本目をプシュッと開けた。
 「そうかー、それじゃキャッチボールとかは無理かぁ」
 「無理じゃないでしょ、私子供の頃ボール投げてたよ」
 「いや、えれなには女の子らしく育ってほしいからいいや」
 なにそれーどーゆー意味―、と私が頬を膨らませると、聡史は笑った。
 「えれなの子育て楽しそうでいいね」
 そういう聡史に、少し間を置いて、そうね、と返した。
 楽しい。最近はおむつを替えるにもつかまり立ちのような体勢ができるようになってくれたし、鼻を吸引していたときも覆いかぶさってもジタバタしなかった。えれなが生まれた瞬間から、いや、お腹にいると分かった瞬間から、私の中ではなによりもこの子が一番になっていたし、この子のためならなんでもしてやりたいと思う。私が育てるのを放置したらこの子が瀕死するように、私もこの子がいなくなってしまったら生きていくことができないと心から思うのだ。
 でも、いつから私はこうなったのだろうとも思う。今までなんともなかった水道水をおいしくなくて安全でないと感じ、仕事がやりがいでなくお金と時間の換算として考えるようになり、服を買わなくなってたまに買ってもラクなものを、髪は結べる長さに、化粧はほとんどしなくなった。出産後に知った、二ヶ月ほどたてばセックスをしても大丈夫という事実にも全く喜びを感じなかった。
 友達とごはんを食べに行くたび、ライブに行くたび、恋人や家族や仕事でうまくいかないときにもしょっちゅう書き込んでいたSNSは、ほとんどがえれなの写真で埋まるようになった。同時に、友達の近況を見てみると、結婚という行為は同じなはずなのにエントランスの広い都心のマンションに住んでいたり、新婚で戸建てを買っていたり、同じ子育てのはずなのに子供とおしゃれなカフェに出かけていたり、器用に子供のズボンを裁縫していたり、パンを焼いていたり、同じ育児をしているはずなのに自分とはかけはなれた生活が目についてしまう。それがストレスになっているのは確かだった。
 

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