小説

『日向の蛙』枕千草(『カエルの王さま』)

 道の向こうで遅れていたバスがやっと姿を見せた。
「明宏」
 私は母の言葉を背中で聞いた。
「あんたも好きなように生きていいんやけんね。お母さんのことはなんも心配せんでよ」
 返す言葉を声にできずに口を噤んでいると、お母さんね、となおも母は続けた。
「あんたたちと町を一緒に歩いて、彼氏かっこいいですねって言われてね。彼氏じゃなくて息子ですってこたえるのが夢やったんよ」
 子供の頃から何度聞いたかわからない台詞を母ははしゃいだように言う。でもね。
「両手に花っていうのも悪くないやんね」
 目の前にバスが到着して、私はそれに乗った。整理券をとってすぐ後ろの席に座ると、窓の外に立つ母と目が合った。目の前が軽く霞む。数年前、初めて家を出た時に似ている気がした。
母の姿に重なるように窓に手を添えるとバスが動きだした。立っている母の影の先で、ずっと動かなかったカエルが田んぼの中へと飛び込んだ。

 昔、自分とカエルは似ていると思っていた。
 だから毎日の通学路でしばらくカエルを追いかけて歩いた。勝手に仲間意識をもたれたカエルもいい迷惑だっただろう。
 水中と陸上、カエルはそのどちらでも自由に生きられると郁人は言った。でも、本当はそうじゃない。どちらもないと生きられないのだ。ずっと地上にいては干からびてしまう。どちらも捨てることが出来ない私には二つの世界が必要だ。その事実を知っても、郁人は変わらずカエルに憧れの念を抱くだろうか。

 東京は土砂降りの雨で、狭い居酒屋の中にも雨の音が激しく響いている。そのせいかはわからないが、周りには私たち以外に客は居なかった。
「今日、せんせい恋人と一緒に住んでるのって聞かれた」
 保育園の質問にそう答えると、またその話題ですか、と郁人は笑った。今夜は焼酎を飲んでいて、珍しく少し酔っている。
「ゆうくんに?」
「いや、ゆうくんのママに」
 私も焼酎を一口飲む。私たちはいつもより大きめの声で話していた。そうじゃないと雨の音でかき消されてしまうのだ。店主のおじさんの肩に隠れている小型テレビの野球中継によると23区は大雨警報が流れている。
 

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