小説

『日向の蛙』枕千草(『カエルの王さま』)

「またすぐ会えるかもしれないからさ」
 歩き始めるのを促すように私は郁人の肩を押した。郁人にはそう言ったけど、またしばらくの間弟と会うことはないだろうと思っていた。

 私と郁人が付き合い始めてから5年が経とうとしていた。
 知り合ったのは海外で、お互いに旅行中だった。ほとんど一目ぼれで、私は彼と目が合ったときには既に恋に落ちていたと思う。
 よく恋に言葉はいらないというが、まさにそれを体現したような出来事だった。
「今日ね、ゆうくんにせんせい結婚してるのって聞かれた」
 荷物を網棚に乗せながら私が言うと、郁人は嬉しそうに応える。
「おお。ゆうくんってあれでしょ?前に言ってた、バレンタインデーにクラスの女の子みんなからチョコもらったっていうもてもての男の子」
「そうそう」
 私は保育士をしていて、郁人は写真家だ。私はあまり彼の仕事については詳しくないけれど、郁人は私の保育園の話が好きで、会うといつも私の仕事のことを聞いてきた。午後の散歩はどこに行ったとかお遊戯で何を歌ったとか、盆栽好きの園長先生は元気かとか。おかげで彼はうちの保育園の同僚はもちろん、私の受け持つほしぐみの子供たちの名前まですべて把握していた。私の保育園の話を郁人はいつも口角をちょっとだけあげて嬉しそうに聞く。
「してないよって言ったらじゃあ恋人はいるのって」
 子供の口調を真似するようにしゃべると郁人はふき出した。
「最近の園児はませてんね」
「前からだよ」
「それで?」
「言ったよ。いるよって」
 そしたらさ。私は一拍置いて缶コーヒーを一口飲んだ。
「うそーママがっかりするじゃん、だって」
 くくっと笑うと、郁人がコンビニ袋からサンドイッチを取り出してふうんと唸った。
「相変わらず、ママに大人気なんだね」
「何故かね」
「アキちゃん可愛いからね」
「ありがと」
 私はまたコーヒーを口に入れて少しいい気分になった。郁人に可愛いと言われると嬉しい。保育園のママたちに言われるよりもずっと。
 

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