小説

『日向の蛙』枕千草(『カエルの王さま』)

 うちの実家へ行こうと言い出したのは郁人の方だった。
 数年前に家を出て以来、ほとんど帰省していなかった私は最初その提案に戸惑った。母に合わせる顔を持ち合わせていないと思った。
 中学から不登校を繰り返した挙句やっと入れた高校も中退し、逃げるように家を出た弟と、高校卒業まではしたものの、自立を口実に母を残して家を出た私。あの時、家出した弟をなんて薄情な奴だと思ったが、今となっては彼がどんな思いだったのか知る由も無い。それに、自分だって人のことを言える立場ではなかった。とんだ親不孝の兄弟だ。うちには父はおらず、幼い頃から母は私と弟と女手一つで育ててくれた。母には言葉では言い尽くせないほど感謝している。だからこそ会いに行きづらかった。
 しかし、そんな私の心配をよそに、久しぶりに帰ってきた私とその隣に寄り添う郁人を母は歓迎してくれた。

「郁人くんとうまくいっとるみたいやね」
「うん。仲良くやっとるよ」
 仕事の都合で先に東京に戻った郁人に少し遅れて、私が帰る日になると、送るからと言って母も一緒に家を出た。送るとは言っても、運転免許を持っていない母は駅に向かう最寄のバス停まで着いてくるだけだ。
 確認するような母の言葉に私は無難な言葉を返した。また今度一緒に来るよ。そうも付け足した。母は郁人のことを気にいってくれたようだった。
「一緒に住むんやったら迷惑かけんようにせなよ」
それに私は苦笑いで返す。「うん、わかっとる」
 家からバス停までの少しの距離を歩いて、やっぱり相変わらず田んぼだらけだと思った。バスが来るまでの間、母は隣で立っている。
「今日は天気が良すぎやね。暑い」
 真っ青な絵の具で塗りつぶしたような空を見上げて、照りつける太陽に母は迷惑そうに手をかざした。
 それなら家の中で大人しくしとけばいいのにと思ったが、私は同じように空を見上げて、そうやね、と言った。目の前の道には、その先に広がる田んぼまで長く伸びた私と母の影だけが並んでいた。
その時、ふと畦道を動くものが目についた。
「カエルや」
「あら、ほんとやね」
 私が呟くと母は特に珍しくもないと言った口調でそれにこたえた。そうかと思えば、思い出したように静かに口を開いた。
 

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