小説

『ピエロと蜘蛛の糸』阿倍乃紬(『蜘蛛の糸』芥川龍之介)

 糸が、ほぼ私たちの真上で動きを止めた。ほのかな糸の影が、私たちの身体に落ちているのがわかった。やがて糸がゆっくりと近づき、モーター音が大きく耳に響く。糸の先がぱっと大きく開いた。
 そのとき、私は自分の身体の下に不自然なうごめきを感じた。
「ピエロのところに降りてくる。こりゃあ、ちょろいな」
 どういう訳か、恐ろしい怒りが腹からわき上がった。糸の行き先を探り、そして皆で群がるのは、私たちにとっては当たり前のことなのだ。利己心を顕わにして、自分のことだけ考えれば良い瞬間なのだ。狙われる者も狙う者も、ここにいる皆が十二分に理解していることだった。だが、今糸に望まれているのは他ならぬピエロである。自分も利己主義の塊のくせに、糸へ群がろうとする他者の動きが堪らなく不潔なものに思えてきた。
 糸は間違いなくピエロの真上に降りるかと思ったが、彼の胴体のやや右よりにずれており、左の脇腹を掴み損ねている。おそらくこのままでは、ピエロは引き上げられないだろう。
 私の短い脚は、思いがけぬことをした。私の脚がピエロの下に差し込まれ、そして力を込めて蹴り上げられた。タイミングを同じくして、割れた糸の先は閉じられた。ピエロの身体は確かに糸に手挟まれ、ゆっくりと上昇していった。
 ふいに自分の身体が上に引かれるのを感じた。なんと、ピエロを蹴り上げた私の足が、あのショッキングピンクの手に掴まれているではないか。彼の身体を見ると、私の足を掴む手の側に頼りなげに傾き始めている。私はまた足に力をこめ、ピエロの手を振り払った。少し持ち上げられていた私の身体は、足を振った反動もあいまって無様に転がった。
 思いがけぬ行動にめまいがした。全身から力が抜け、糸の先を見守る気にもなれずひたすら放心していた。
 

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