小説

『コウモリ女』田中りさこ(『卑怯なコウモリ』)

「別に、いーよ」とまことが言うと、ヒロは「もう一回やり直す?」と聞いた。まことはもう一回、「いーよ」と言った。
 そっとヒロに近づいたまことは、背中に抱き付いて言った。
「結婚してもいーよの、いーよ、だから」
 まことの中にあったチクチクとした心の痛みもどこかへ吹き飛んでいた。「あ、お湯沸いた」というまことの声は、明るく弾んでいた。

 土曜のセミナーは、満席だった。びしっと黒いスーツを着た夏がにこやかに司会進行をしていた。まことと目が合うと、夏はにこっと笑った。
 まことは、ヒロとの数日前のやり取りを思い出していた。

 まことがカバンの中に手を入れると、指先にかさっと紙の感触がした。広げて出してみると、夏からもらったセミナーのチラシだった。
「保険のセミナー誘われてるんだけど。資産形成の」
 ヒロは、すぐに言った。
「ふーん、んじゃ、行く? 結婚するなら、そーゆーことも、ちゃんと考えなきゃいけないし、別に即契約じゃないだろ? まこ、言いにくかったら、俺、断るし」
「ありがとう」
 改めて、ヒロとの結婚が現実になるんだと幸せを噛みしめた。
 
 セミナーは、夏の言ったとおり、一時に始まり、三時には終わった。契約希望やさらに詳しい話を聞きたい人は、引き続き時間を取ったり、予約を取っていた。
 セミナーが終わると、夏が小走りで、まことの元に駆け寄ってきた。
「ありがとう。来てくれて」
 夏が頭を下げた。まことは「ちょっと、やめてよー」と言うと、夏は顔を上げ、ヒロに視線を走らせた。
 まことは少し緊張しながらも、ヒロを紹介した。
「あの、こちら、お付き合いしてる橋本ヒロトさん」
「中学時代からの友達の笹山 夏です」
 夏は手慣れた様子で、名刺をヒロに渡した。ヒロの方が慌てた様子で、頭を下げた。
「あ、どうも、いつもまことがお世話になってます」
 帰り際、夏がまことに耳打ちした。
「彼、いいじゃん」
「やだ、お夏ってば」
「じゃあ、また女子会しようね」
 保険のパンフレットと保険会社のキャラクターのメモ帳をお土産に、まこととヒロは家に帰った。
 

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