小説

『桜木伐倒譚』大宮陽一(『ワシントンの斧』)

 二日がかりの針治療の遠征から帰ってきたおばあちゃんは、孫の僕にお土産のお菓子を渡しながら、おばあちゃんがまだほんの小さな小学生の女の子だった時分の思い出話をしてくれたんだよ。覚えてる?
僕には最初おばあちゃんに子ども時代があったということがよくわからなくて、それですごく驚いた。だって、子どもの僕にとって、おばあちゃんは生まれたときからずっとおばあちゃんを生きてきたものだとばかり思っていたからね。おばあちゃんは笑って教えてくれたでしょう。
『小さな苗木が成長して成木になるように、人間も最初は赤ちゃんからスタートして最後は老いておじいちゃんやおばあちゃんになるのよ』って。
 あのとき、僕は多少の好奇心と驚きと共に、『人は老いる生き物なのだ』という概念を自分のなかに初めて取り入れたんだと思う。ただし、おばあちゃんの話の本筋はそのあとにあったんだよね。僕はその話を覚えているつもりだよ。

 おばあちゃんが小学校に通っていた頃のことだよね。だから、今から八十年も昔のことになる。当時はまだ病院というのも今ほどたくさんなくて、おばあちゃんのおばあちゃんは、晩年を茅葺屋根の母屋の一室で過ごしていた。だんだんと体調が悪くになるにつれて、おばあちゃんのおばあちゃんは、起き上がるのも大変になった。今みたいにテレビもないし、家にはまだラジオも来ていない時代だった。電話は町内に一台しかないから、何かがあったら電話を借りに走る。水道もなく、ガスもない。風呂も食事も薪で用意した。今とはすべてがちがっていた。おばあちゃんはそう言っていたね。
 そんな時代に幼少期を送った睦子少女には楽しみがひとつあった。なかなかのおませさんだった睦子ばあちゃんは、親戚中の大人たちが寄り集まる春の花見が一年で一番の楽しみだった。毎年、桜の咲く季節になると普段は畑や田んぼで農作業に忙しい一族が家の敷地の一角に立つ桜の木の下で宴会を催す。大人たちが歌を唄い、踊りを踊るのを見るのが睦子少女は大好きだ。じっくり聞いても理解できない話、しょっぱい酒のつまみ、ときどき吹き抜ける冷たい風、甘い酒のにおい、それから絶えることのない大人たちの笑い声のなかで、年に一度の大宴会は催される。
 

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