小説

『桜木伐倒譚』大宮陽一(『ワシントンの斧』)

 睦子ばあちゃんの育った家では正月よりも、桜の季節の宴会が盛大に執り行われたんでしょう? たしか僕は『クリスマスは? じゃあ、誕生日は?』って聞いたんだよね。おばあちゃんはそんなものはどちらも祝わない時代だとも教えてくれた。
 その年も長い冬のあいだに睦子少女は手にあかぎれをつくり、家の冷たい水仕事に耐えた。やっと手の生傷が治りはじめる頃になって桜の木の下に親族が集まるはずだった。
 しかし、少女が小学校からつづくなだらかな坂道を家に向かってのぼってきたときだ。妙に家が寒々しいことに気が付いた。よくよく見れば、庭の桜の木が伐り倒されている。子どもだった睦子ばあちゃんには何が起きたのかわからなくて、すぐにも畑に駆けて行ってお父さんやお母さんに問いかけた。すると両親は、家で寝ているおばあに聞けと言う。睦子ばあちゃんは家に飛んで帰って、病床に伏せている祖母に問いかけてみた。「おばあちゃん、どうして桜の木を伐ってしまったの?」
 おばあちゃんは一言だけ返事をくれた。
「やあ、睦子。おばあには、もっときれいな花が咲くのが見えるのやよ」
 病人は咳きこんでしまい、それ以上ことばをつなぐことができない。しかし、女の子には何のことだかわからない。「もっときれいな花」ってなあに? なんのこと? おばあ、どうして木を伐ったの? 睦子少女は、たたみかけるように質問を重ねたが、祖母はまだひどく咳をしていた。その痩せた背中から浮き出た背骨が大きく震え、いまにも折れてしまいそうだと思った。しかし、少女は祖母を気遣うこともなく、部屋を飛び出した。祖母のことなどより桜の木が伐られたことの方がおおごとだったからだ。
 とにかくも、病気で寝込んでいる祖母のよくわからない意向で庭の桜の木は伐られてしまった。残されたのは断面の生々しい切り株だけだ。それでも桜の咲く季節になると、花のない庭で宴会は開かれた。睦子ばあちゃんはどことなく物足りなさを感じていた。重箱に落ちてくる花びらや、頭や肩に落ちてくる毛虫までもが懐かしい。そう思えば、改めて縁側で毛布にくるまって咳きこんでいる祖母が憎たらしい。桜の木が一本ないだけで、例年以上に風が冷たく感じられる。睦子少女は大人たちがまだ楽しそうに酔いしれているのを尻目に、さっさと家のなかに引き揚げてしまった。
 

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