小説

『耐えろサトル』小野塚一成(『走れメロス』)

とはいえ、ほぼ不意打ちに近い形で現れたアクシデントに対して、相手の出方ばかりを見ているわけにもいかない。こちらからもアクションを起こさなければ一方的にペースを奪われ、悲惨な末路をたどるのは目に見えている。そう、このまま、理不尽と言っても差し支えないくらいの、人類の都合なぞお構い無しの、ある種凶暴な自然の摂理に身を任せるのは決して賢い選択とは言えない。理性と知性を働かせ、人類としての威厳を保たなければ、彼の人生並びに今現在履いているパンツに取り返しのつかない大きな汚点を残すことになるであろう。
要するに彼は今、ひたすらトイレに急いでいるのである。
そもそも途中で電車が立ち往生するなど思いも及ばなかった。「お急ぎのところ大変申し訳ございません」の車内放送がうらめしかった。止まっているほんの3,4分間が永遠のように感じられた。再び電車が動き出したときは心底ホッとした。
ドアが開くと彼は真っ先に電車からホームに降り、そこから階段を駆け下り構内を急いだ。
駅構内に溢れる乗り換え客を、学生時代に打ち込んでいたラグビーをいかしたフットワークで右に左にかわしつつ、とにかく先を急ぐ。本能的な危機を感じつつある。その証拠に先ほどまでは急ぎ足であったが、彼はほぼ無意識のうちに小走りをするようになった。
その時だった。ふと前方にいる一人の男が「よおっ」と手を挙げ、彼に声を掛けてきた。高校のラグビー部時代の先輩、梶原だった。
悟は内心「最悪だ。一番厄介なヤツに出会ってしまった。」と思った。梶原は空気の読めない男で、その性質のために先輩からも、同級生からも、そしてもちろん後輩からも煙たがられていた。この場合も、自分の後輩とはいえ、明らかに切羽詰った顔をして先を急いでいる人間に気軽に話しかけるなど、正常な感覚を有している人間には不可能なはずなのだ。
 

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