小説

『海亀の憂鬱』泉谷幸子(『浦島太郎』)

――若者は名を浦島太郎といい、漁師であるとのこと。ご両親を養うために、毎朝暗いうちから海に出て漁をしているそうでございました。乙姫様は太郎様の話を興味深そうに聞き入り、太郎様も出されるご馳走に舌鼓を打ち魚たちの舞に喜び、楽しそうに時を過ごされました。時間とその場の状況にじりじりしているのは、ひとりわたくしだけだったのでございます。
――どのくらいたったでしょうか、太郎様がそろそろお暇を、と仰ったのでわたくしははっと居住まいを正し、いつでも出発できる体勢を取りました。が、乙姫様は落ち着いて、よろしければ今夜はお泊まりくださいませ、お帰りになるのはまた明日考えられればよいではございませぬか、と潤んだ目で太郎様を見つめて仰りました。さすがの太郎様も少し躊躇されているご様子だったのですが、のう、亀よ、亀も太郎様にいていただきたいであろうとの乙姫様のお言葉。ご本人を前にして否定はできませぬ。それをご承知の上、乙姫様はそう仰ったのでございます。では一晩なら、ということで太郎様は結局泊まられました。わたくしは臍を噛む思いでおり、どのようにして翌朝を迎えたか、記憶にございません。
――その後もお二人はさらに仲睦まじくなっていかれ、二日、三日、一週間、ひと月と日にちがたっていきました。これまでならとうに飽きて一呑みしていたはずの乙姫様は、飽きるどころかより太郎様に入れ込んでおられるご様子。太郎様ももうお暇などと仰ることなく、毎日竜宮城での享楽に浸っておられました。わたくしもひと月たった頃から太郎様を陸にお送りすることは諦めざるをえなくなり、それからは一日も長くおられることを願うしかございませんでした。もはや陸に戻られても悲劇しか待っていないことは明白だったからでございます。
――太郎様がおられるということは、わたくしも太郎様にお会いする喜びを感じられる一方、乙姫様との睦まじいご様子も目の当たりにするということでございます。勘のいい乙姫様は最初からわたくしの秘めたる思いをご存じだったようで、何かとお二人でおられる場面にわたくしをお呼びになり、ひとしきり仲のよいご様子を見せつけた後、たいしたこともない用事を言いつけられます。それを落ち着いて承り、乙姫様のかすかな笑みを視界の端に認めつつ、太郎様の相変わらず優しいまなざしを一瞬でもこちらに向けていただける喜びも感じながら、仰るとおりのことをいたします。そして乙姫様の興味深そうな視線を痛いほど感じながらその場を引き下がるのでございます。
 そのような日々はあっというまに流れ去ってまいりました。そして三年たったある日のこと、恐れていた事態になりました。太郎様が改まって真剣な顔で、陸へ帰ると仰ったのでございます。

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