小説

『海亀の憂鬱』泉谷幸子(『浦島太郎』)

――乙姫様は大層驚かれ、その理由を尋ねられました。太郎様は、最近ようやく目が覚めた思いでいる、陸に残してきた両親が心配だ、孝行するつもりだったのになぜ三年間も遊んでしまったのかなどと堰を切ったように話されたのでございます。その場には急遽わたくしも呼ばれ、乙姫様とともに一生懸命説得にかかりました。もちろん、一度陸に戻られると二度とこちらには戻ってこられないこともきちんとお話しいたしましたが、太郎様の決心は本当に固かったのでございます。わたくしどもも、掟を侵してお連れしてきてしまったお方を無理に引き止めることはできず、泣く泣く陸へお帰しすることになりました。
――出発の日の朝、乙姫様は決して開けることのないようにと仰りながら、美しく螺鈿をほどこした玉手箱を太郎様にお渡しになりました。本来、陸に戻ったその瞬間にご本人に800年の月日が経つべきところの、その「時」を封じ込めた玉手箱でございます。しかし、竜宮城は人間には秘密の世界であるため、たとえ太郎様であってもそれが何かをお話しするわけにはまいりませぬ。決して、決して、と必死に乙姫様が仰るのを、太郎様はそれなら私に渡さなくていいではないかと仰ったのですが、それはいけない、これは太郎様のものであるからお渡ししなければ、との押し問答を、太郎様は楽しんでさえおられるご様子でした。わたくしは底知れぬ悲しさをもってそれを見つめておりました。
――竜宮城を出発する際におふたりが別れの挨拶をされ、太郎様がわたくしにまたがられた時、乙姫様が何とも言えない表情をされました。太郎様と永遠に別れる悲しさ、自分より亀のほうが長く太郎様と最後一緒におられる口惜しさ、間もなく太郎様の命が終わるであろうことへの絶望感、そして太郎様を竜宮城につれてきたことの是非などが脳裏をめぐったのかもしれませぬ。竜宮城を出発してからの道中、太郎様は懐かしそうに海の光景を眺めておられました。その日も海は美しかった。あの日と同じように、まるで極楽浄土のように美しかったのでございます。そしてわたくしは悲しい心持で、ついこのように申しました。
 楽しい時は早く過ぎゆくもの。ご忠告申し上げましたが、少々気づくのが遅すぎたのではございませぬか・・・
 しかし太郎様は、そうだなあ、私は軽率だった、だから早く両親に会わないと、と仰ったのみでございました。少々でなく、とてつもなく遅すぎたのでございます、と心の中でむなしく叫びながら、わたくしは陸へ陸へと泳いでいきました。

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