小説

『子供心』伊藤円(『浦島太郎』)

「だいじょぶだった?」
「……ああ、うん、へーきへーき、いつものことだから……。きみは? だいじょぶ?」
 少年は弱々しく答えた。
「へーき、へーき。おれジュード―やってるから。あんなのアサメシ前だよ」
「すごいなぁ、きみは、つよいんだね。ありがとう。みんな、ぼくをいじめるから……」
 少年は、のそ、のそ、腰を上げた。太郎よりも低い身長。首がだるだるの黄ばんだTシャツを着て、砂を払おうともせず、それを見兼ねて太郎は少年の尻をぱん、ぱん、叩いてやった。しかし少年は怯えたように固まって、じいっ、と太郎の動きを眺めて、
「きみは、ぼくと、トモダチになってくれる?」
 突然、言い出した。とはいえ太郎に返事を考える必要はなかった。
「もちろん!」
「……きみは、やさしいんだなぁ。ありがとう、ぼく、こんなの初めてだ!」
 少年は、頬を緩めた。それには太郎も、ふと嬉しくなった。
「きみは、なんて名前なんだい?」
「亀田おさむ。君は?」
「おれは、太郎。奥山太郎」
「そうか、太郎くんか。太郎くん。あの、よろしくね……」
 亀田はすっ、と手を伸ばしてきた。
「よろしく!」
 太郎はその手を力強く握りしめてやった。ぶん、ぶん、数回振り回して離すと、
「そうだ! 太郎くん、ウチこない? 助けてくれたお礼に、ウチにしょうたいするよ!」
 そう言って亀田は目を輝かせた。カブトムシ相撲、と太郎は躊躇したが、
「もちろん! つれていって!」
 大きな声で太郎は答えた。相撲は捨てがたかったが、一人、相撲の行司を取り仕切るよりかは、新しい友達の亀田と遊んでみる期待のほうが少しだけ大きかった。

川を越えて数分、何の脈絡もなく石垣を曲がると、がらっ、と雰囲気が変わった。細い通路に錆色の壁が両脇を固め、これまで並んでいた戸建てやマンションが、そのてっぺんすら見えなくなった。等間隔に並ぶドアは雨風のせいだろう、洗濯に失敗したような青色。地面はずしりと粘つくような土。つん、と漬物みたいな匂いが漂って、かろうじて空は仰げるが、妙に薄暗い。黒々と錆びた自転車は停車ストッパーもなく壁に立て掛けられて、シャベルやバケツや子供のおもちゃが散乱し、それらは罅割れ、または崩壊している。ぽつん、とだしぬけに現れた発泡スチロールの中には、何だかよく解らない重油みたいな液体で満ちている。自分のウチの辺りとはまるで違う世界。開け放しのドアがあって、まさかあの中に入っていくんじゃないだろうか、と半ば怯えすら覚えていると、
「ここだよ! 太郎くん!」
 亀田はそのドアにひらり、腕を揺らした。
「へぇ、ここかぁ!」
 しかし太郎は、満面の笑みを見せる亀田のために、いかにも嬉しそうに言ってみせた。しかし、にゅうっ、とドアから三つも子供の頭が縦に並んで覗いた時には、ギョッ、と足を止めてしまった。
「……だれぇ?」
 暫しの沈黙の後、一番下の子供が言った。
「太郎くんだよ。ぼくの、トモダチ!」
「トモダチ!」
「トモダチ!」
「ともだち!」
 輪唱されて、太郎は余計に怯えるようだった。動くこともできずじっと見詰めていると、
「上から、ススム、イサム、ユウ。キョウダイなんだ」
 亀田が言った。それから、
「ほらほらどけっ! これからウチで遊ぶんだ、じゃまするなよ!」
 さっき虐められていた時とは見違えるような剣幕で兄弟たちに言いつけた。それからドアに走り出し、まるで牧羊犬のよう、ドアの外にあぶれ出た、やはり黄ばんだTシャツ姿の兄弟たちを家に押し込んでいった。それが済むと亀田は太郎に振り返って、
「ごめんね、太郎くん。さぁ、あがってあがって!」
 と言うのだった。

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