小説

『忘れな草の物語』新生実(『忘れな草の語源にまつわる伝説』)

 クロナさんは家に入ったきり出てこなかった。僕がクッキーを全部食べ終わっても出てこなかった。
 ――クロナさんはノートを返してくれない。もうすぐ母さんがここにやって来て僕を家に連れて帰る。そして僕はルリのことを忘れてしまう。そうに決まっている――
 そのときクロナさんの声がした。「タナ、待たせてごめんなさい。あなたのノートをよく見たかったの。あなたはタンポポの綿毛が見られる丘を探していたのね」
 僕は黙って頷いた。
「タンポポの綿毛はこの季節には見られないの。だからあなたはルリと遊んだ丘がわからなかったのよ。ルリは毎日この道を通って丘に行くわ。今日も丘へ行くのを見たの。ルリはあなたがやって来るのを待っているのよ。最後ページに丘までの地図を書いておいたわ。これを見て丘までゆきなさい。ルリは白いワンピースを着ているからけして見間違ったりしない。さあ、ルリの所におゆきなさい」
 僕は立ち上がり、ルリのいる丘に向かって走り出した。

 丘の頂上に立つと、汗をかいた体が風に吹かれて冷えてくる。頂上から辺りを見回してもルリの姿はどこにもない。
「ルリー」
「ルリー」
「ルリー」
 ――だめだ、もういない――
 丘のずっと向こうに季節外れのタンポポが一つ、白い綿毛を風に揺らしていた。
 ――ああ、もっと早くここに来れば良かった――
 僕はたった一つ残ったタンポポを見つめていた。
「あ」僕は声を上げた。
 ――あれはタンポポじゃない――
 その白いフワフワした物はどんどん大きくなってくる。それは僕に向かって近付いてくる。それは白いワンピースを着た女の子だった。
 その子は僕の目の前までやって来ると、草原に膝をついてしゃがみ込んでしまった。あまりに急いで走って来たものだから、苦しくて声も出せないらしい。
「ルリだよね」
 その子はうなずいた。
「やっと会えた。ずっとキミに会いたかったんだよ」
「覚えていてくれたのね」

 夕方、ルリは僕を家まで送ってくれた。
「さよなら」と言ってもルリは何も答えてくれない。
 僕はルリが最後の「さよなら」を言ってくれるのを待った。しかしルリは何も言わず、背を向けて走り去ってしまった。これでルリと会うことは二度とない。

 その夜、僕はノートを首から外し、枕元に置いてベッドに入った。
 ――もうこのノートは必要ない――
 最後のページにはルリの言葉が書いてある。
 (私を忘れないで。)
 僕は頭まで毛布を被り、誰にも聞かれないように泣いた。
「ごめんね、ルリ……」

   *

 ベンチを囲んで咲く花は、全て母さんの手で植えられた物だ。花には様々な色や形があって、それぞれに名前がある。僕は毎日庭の花を見ているはずなのに、どれ一つ名前を知らない。足元に薄紫色の小さな花が咲いている。この花は決して目立つ花ではない。でも僕はこの花が一番好きだ。

「ねえ、母さん。ルリいつは来るの」

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