小説

『忘れな草の物語』新生実(『忘れな草の語源にまつわる伝説』)

 僕達はタンポポの綿毛を追って丘を走り回った。ルリは花を見るたび名前を教えてくれる。タンポポという名もルリが教えてくれた名前の一つだ。ひとしきり走って汗をかいた僕達は、丘の上で足を投げ出して座り、気持ちのいい風が汗を乾かしてくれるのを待っていた。
「ルリ、このノートにはどうしてこれから起こることが書いてあるんだい。このノートには、まるで僕とルリがずっと前から友達だったように書いてあるけど、なぜ」
「あのね、タナ」今まであんなにはしゃいでいたルリの声が急に小さくなった。その声に僕は、これから話されることがけして喜ばしい話しではないとさとった。
「タナはそのノートのこと、魔法のノートだと思ってるでしょう。でもそのノートは魔法のノートじゃないの。そこに書いてあることは全部タナが自分で書いたことなの。あなたは今日あったことを明日には全部忘れてしまう。私のことも、私と遊んだことも全部忘れてしまうの。私はあなたに忘れてほしくなかった。だから毎日私のことをノートに書いてもらったの。そうすればあなたが私のことを覚えてくれると思ったのよ」
 ――忘れてしまう? 言われてみれば僕は昨日のことを何も覚えていない。ルリと会ったのは今日が初めてのはずなのに、なぜかルリのことがノートに書いてあった。だからこれが魔法ノートだと思った。僕が知らなかっただけなんだ――
「タナ、友達に忘れられるのは寂しいことよ。ほら見て、あそこ」ルリは丘の下を流れる小川を指さした。
「川辺に薄紫色の花が咲いているのが見える? あの花は忘れな草って言うのよ。忘れな草にはとても悲しい物語があるの」
 ルリはゆっくりと語り始めた。
「昔、とても仲の良い男の人と女の人がいたの。二人は一緒に川沿いを歩くのが好きだった。ある日、男の人が川辺に咲いた薄紫色の花を見つけた。その花があまりに綺麗だったから、大好きな女の人にあげたくて川に身を乗り出して花を摘んだ。ところが男の人は手を滑らせて川に落ちてしまった。男の人は川に流されながら女の人に花を投てこう言ったの『僕を忘れないで』そして男の人は死んでしまった。だからあの花のことを忘れな草って言うの……タナ、私もあなたに忘れてほしくない」

 (……これがルリの話してくれたことだ。忘れな草の物語に出てくる女の人も、ルリと同じように泣いただろう。)

   *

「ねえ、今日はどこに行く? 川で遊ばない? 笹舟を作って流すの」
「タナ、ルリ、今日はどこへ行くの」
「タナのお母さん。今日は川に行って笹舟を作るの」
「だめ。だめよ……川に行ってはだめ」突然母さんが大声を上げた。

 (僕とルリが川に遊びに行くと言うと、母さんがだめと叫んだ。どうして母さんがあんなにも怒ったのか、僕もルリもわからない。)

「タナは寝たかい」
「ええ、眠ったわ。」
「そうか……よかったじゃないか、ルリのおかげでタナは楽しいことを覚えていられるようになった」
「タナは覚えてなっていないわ。ただノートに書いてあることを読んで、思い出したと勘違いしているだけなのよ」
「それでもいいじゃないか」
「よくないわ。ルリがタナを川になんて連れて行かなければ、こんなことにならなかったのよ」
「そんなことを言うな。ルリがタナを助けてくれたんだぞ。もしルリがいなかったらタナは……」
「でも、タナはもう何も覚えていられないのよ。なのにルリが忘れているのは、タナと川に行ったことだけ」
「それはルリが覚えていられないほど恐ろしい思いをしたからじゃないか」
「だったらなぜルリはタナのことを覚えているの。なぜタナだけがこんな酷い思いをしなければならないの。なのにルリは、タナに忘れられないように、あんなノートを作って。あんなノート、ないほうがいいのよ。ルリことなんて忘れてしまえばいいのよ。そうよ、あのノートを取り上げてしまえばいいんだわ」
「よしなさい」

 僕はベッドで父さんと母さんの話を聞いていた。そして暗がりでノートにこう書いた。
 (母さんが僕のノートを取り上げようとしている。これはとても大切なノートだ。このノートがなければ、僕はルリのことを忘れてしまう。絶対に取られてはいけない。)
 僕はノートをパジャマの中に隠し、枕を抱いて眠ったふりをした。
 ――眠ってはいけない。眠ったら母さんが僕のノートを取りにくる――
 部屋のドアが静かに開き、母さんが隙間からこちらを覗いている。
「あなた、大丈夫よ」
「よしたほうがいい」
 母さんが足音を忍ばせベッドに近付いて来た。そして僕の手にそっと触れた。僕は目を開けた。母さんが一歩後ずさった。
「タナ、どうしたの、こんな恰好で寝て。この枕、離しましょうね」母さんの声が震えている。
 僕は叫んだ。「僕のノートを取らないで。早く出って」
 母さんは目を見開いて僕を見た。そして部屋を走り出て行った。

 (母さんが僕の大切なノートを取ろうとした。)

   *

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