小説

『穂に出いで』斉藤高谷(『狐女房』(石川県))

 生活費だけでなく、学資にも僕らは困ることがなかった。先々を見据えた投資も行われていて、父が働かずとも僕らが金銭的な苦労をせずに大学を出られる程度の道が整えられていた。
 だけど、その道を何事もなく歩んでいける保証があるわけではなかった。
 高校三年の秋のことだった。夜、家で受験勉強をしていると、固定電話が鳴った。その瞬間から嫌な予感がした。個人的な連絡であれば携帯電話に掛かってくるはずだし、夜の遅い時間の電話は大抵緊急の用件だ。それも、悪い方で急いでいる。
 父が出ないので僕が電話を取った。果たしてそれは悪い知らせだった。
 弟が事故に遭ったのだ。部活の仲間とファミレスで遅くまで喋った帰りのことだった。自転車に乗っていての、トラックとの接触だという。
 僕は病院へ急いだ。父も覚束ない足取りでついてきた。弟は集中治療室に入っていて、顔すら見ることができなかった。やがて中から医師が出てきた。
 医師は泣き崩れる父に弟の容態を説明しようとして、無理だと判断したのか、説明の相手を僕に切り替えた。僕にだって医師の言葉はトンネルの反対側の出口から聞こえてくるように遠かった。どうにか捉えられた意味を繋げると、今夜一晩が山場で、どちらに転ぶかもわからない、ある程度の覚悟を決めてほしい、ということだった。
 僕と父は、廊下のベンチに並んで座った。待つ以外、するべきこともできることもなかった。しばらく啜り泣いていた父はいつの間にか静かになっていた。そのうちに鼾を掻きだした。僕も僕で、始めは張り詰めていた気持ちが、永遠に続くかも知れない待機時間を前に緩んできた。そして粘り気を帯びた眠気が足下から這い上がってきて、僕の身体を包み込んだ。
 ふと気が付くと、赤い光がぼんやり見えた。
 集中治療室の表示灯だ。それが点いているということは、弟がまだ生きているということだった。
 暗い廊下を誰かが歩いている。女性だ。医師や看護師の誰かかと思ったけど、長いスカートを穿いたシルエットから、それは違うとわかった。
 何より彼女は裸足で、リノリウムの床を歩いていた。
 幽霊。死神。そういう類いのものがあの世から弟を迎えにきたのだろうか。どうか弟の命を持って行かないでほしい――そんな考えが、ぼやけた頭に浮かんだ。
 声が聞こえる。裸足の女性が何かを唱えている。その不明瞭な言葉はしかし、僕の中で速やかに変換された。
「穂に出いでつつぱらめ」
 僕は喉を絞るように、彼女に呼び掛けようとした。声というより乾いた音しか出なかった。それでも、女性には届いたようで、彼女はこちらを振り向いた。
 女性は微笑みを湛えていた。僕には懐かしい笑みだった。
 彼女は小さく頷くと、再び薄い唇を開いて「穂に出いでつつぱらめ」と唱えながら歩き始めた。
 彼女の声を聞いていると、弟の命は持って行かれずに済むと思えた。僕は再び目を閉じた。
 声は次第に遠ざかっていく。
「穂に出いでつつぱらめ」僕も口の中で、そう唱えた。

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