小説

『化かされて』斉藤高谷(『にわか入道(埼玉県)』)

「今でも十分若いでしょ」店長や朝番のおばちゃんたちは口々に「いいねえ若者は」と言ってくる。最近腰が痛いと嘆くと「若者が何言ってんの」と笑われる。そんな風に彼らと話していると、自分がまだ二十歳そこそこぐらいの気分になるものだ。
「三十五」と、ヨーコは言った。「わたしたち、もう三十五だよ。厚労省の調査基準で言うともう若者じゃない」
「厚労省……? そうなの?」
「そうなの。戦国時代だったらもう初老」
「今は人生百年時代だし」
「後ろの三分の一はそれまでに蓄えた分で生きていかなきゃならないんだよ」
「それをこの子に養ってもらえば」
「だからこのままじゃこの子を育てられない」
 ぐう。
「蓄えの話で言うとさ、君は既に他の人より十年分以上少ないんだよ。大学出て、ちゃんと就職した人たちより」
「〈ちゃんと〉って」これには本当に傷ついた。「そんな俺でもいいって言ったの、自分じゃん」
「そうだけど」彼女も傷ついたように目を伏せる。「こんなに長く続くとは思わなかったから」
 ヨーコとは大学の軽音サークルで一緒だった。彼女は女同士バンドを組んでおり、俺は今の連中とつるんでいた。サークルの誰もが初めは本気で、このまま行けば自分もいつかはメジャーデビューできるのだと信じていた。そして時間が経つごとに一組、また一組とバンドが解散していった。ヨーコのバンドもそうで、卒業が近くなると就活やら何やらでメンバーが集まらなくなり自然消滅した。一方、俺のバンドはなまじ周囲の評価が高く、本当にデビューするのではと期待を寄せられ、解散などという方向へはいかなかった。俺も含めメンバーの誰も就職する気などなく、卒業後も当たり前に、むしろそれまで以上に本腰を入れて音楽を続けるつもりでいた。
 本気で臨みさえすればデビューは近いと思っていた。今までの自分たちには単に時間が足りなかったためなのだと。生活費の大半をヨーコに頼りながら、音楽に打ち込む日々が始まった。罪悪感はもちろんあったが、すぐに俺が彼女を養ってやれるようになると信じていた。
 一年が過ぎ、三年が過ぎ、七年が過ぎた。その間、いくつもの曲を書き、数え切れないほどのステージに立ってきたが、それらが今の俺に残したものはない。ただただ、二十代の時間を食い尽くしていっただけだ。
 三十になる年、先にも挙げたオーディションで一区切りつけるつもりだったのが、誰のイタズラかデビューに手が届きかけた。これで吹っ切ったはずの気持ちが未練に負け、その後の五年間を音楽という大食らいの怪物に捧げることになった。今現在も捧げている。
「夢を追うのはいいことだと思うよ」ヨーコは言った。「けど、もう時間切れなんじゃないかな」
「〈夢〉って言うな」将来設計だ、と二十代の頃は言えた。今は言葉が喉に引っ掛かる。
「近づくことすらできないなら、それは〈夢〉だよ」
 近づくことすらできないなら、それは〈夢〉。そう手帳に書き記すことを想像する。日常生活で出会った言葉や思い浮かんだフレーズを書き留めることが、いつしか習慣になっている。全てのページが埋まった手帳は数十冊。今では本棚の一画を占めている。十年以上に及んで音楽に打ち込んできた証だ。もし音楽をやめたら、これらは全て無駄になる。
 本棚を起点にして部屋を見回す。ギターにアンプ、ステレオセット。大量のCDにレコード。どれも「商売道具だから」とか「勉強のためだから」といって、収入には見合わないほどの金額を注ぎ込んできたものばかりだ。時間も金も、音楽にはたっぷりとくれてやった。今のところ何も返してもらっていないが。

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