小説

『化かされて』斉藤高谷(『にわか入道(埼玉県)』)

「痛たたたたた」付属の安いプラスチック製コームに髪を持って行かれそうになる。「引っ掛かってる。もっと優しく」
「今でも充分優しいと思うけど」
「その三倍優しく」
「日が暮れちゃうよ」
 そんな風にして薬剤を塗り終わり、染まるまで待つ。オールバックにされた髪がガチガチに固まっているのがわかる。自分がどんな風体になっているのか見たい気もするが、見たくない気もする。結局椅子に座ったまま、時間が過ぎるのを待つ。
 アパートの前の道では車が途絶えることなく行き来している。時折、停留所に都バスの停まる音も聞こえる。
「ところでさ、どっちなの」俺は問う。
「何が?」洗濯機から洗い物を出してきたヨーコが言う。
「赤ちゃん。男? 女?」
「すぐにはわかんないよ。もう少し経たないと」
「どのくらい?」
「さあ。どのくらいだろうね」濡れたTシャツをハンガーに掛け、パンパン叩きながら彼女は言う。「それは君次第かな」
「何だよ、それ」
 ヨーコは粛々と洗濯物を干していく。その姿はどこまでも日常の一コマだ。よく言えば牧歌的で、悪く言えば危機感に欠けている。自分の中にもう一つの命があることをわかっていないような危機感の欠如だ。
 それはあくまでぼんやりとした予感でしかなかったが、彼女が洗濯ばさみを落としてぐっと身を屈めるのを見た時、確信に変わった。
「お前……」
 自分の冒したミスに気づいたらしく、彼女は肩越しにこちらを向くと、小さく舌を出した。俺は言葉を探したが、テーブルに置いたスマホのタイマーが鳴った。
「おっと時間だ」と、彼女がやってくる。「流してあげるよ」
「その前に話が」
「放っておくと禿げるよ?」
 そうして風呂場へ連れて行かれ、冷たいシャワーで頭を流される。絶対に目を開けるなと言われたが、そんなことを言われたら逆に開けたくなる。薄目を開くと、黒く濁った水がバスタブに流れ落ち、排水口へ吸い込まれていくのが見えた。その黒は、頭に塗った薬剤だけではない気がした。しばらく見ていると、視界が滲んで目を閉じた。
 柔軟剤の効いたタオルで水気を拭き取られ、ドライヤーの温風を当てられる。ヨーコの指は髪を一本一本より分けるように丁寧だった。
 瞼に当たっていた前髪の水気がなくなった頃、再び薄目を開けた。洗面台の鏡が見える。像を結ばず、男が映っていることしかわからない。
 ドライヤーの音が止む。
「もういいよ」
 今度ははっきりと、瞼を上げる。
 目の前には白々しいぐらい真っ黒な髪の冴えない男。髪を切り、ひげを剃り、ピアスを外せばスーツだって似合うかもしれない。
 ヨーコが肩に手を置いてきた。
「こっちも悪くないんじゃない?」
 鏡の中の男はぼんやりとこちらを見ている。やがてその顔に笑みが浮かんでくる。
 穏やかな笑み。そいつがそんな風に笑うのを見るのは久しぶりだ。

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