小説

『化かされて』斉藤高谷(『にわか入道(埼玉県)』)

 今のところ。
 そうだ。〈その時〉はいつか来る。だから今はまだ、ここでやめるわけにはいかないのだ。そうでなければ、今までしてきたこと全てが無駄になる。この十年が無駄になる。
「あと少しだと思うんだよ」俺は言った。喉が渇いて痛い。「あのオーディションでは確かに手応えがあったんだ。あと少し。あと少しだけ続けていれば、ゴールに辿り着ける気がするんだよ」
「ゴール」
 ヨーコの声で聞いてハッとした。
 いや今のは違う、と言おうとしたが、もう手遅れだ。無意識に発した言葉は、それだけ勢いを持って相手に届いてしまった。
 ヨーコは顔を伏せる。やがてその肩が小さく上下し始める。鼻を啜る音。しゃくり上げる声。
 泣いている。始発から終電まで土日もなく働かされたり取引先から理不尽に文句をつけられても弱音一つ吐かなかったヨーコが泣いている。崩れるはずのなかった堅牢な家が平行四辺形に歪み、そのまま倒れるのを見ているようだ。
「この子はまだ何も始まってない」嗚咽の隙間から声がする。「スタートすら切れていない。そのチャンスすらあるかどうかもわからない。この子には何の罪もないのに」
 罪、という言葉に胸を抉られる。お腹の子に罪はない。罪を犯しているのは俺の方だ。俺のせいで、一人の人間が〈夢〉さえも見られない可能性があるような状況に置かれている。誰かをそういう風にした俺は、たしかに罪人だ。
 本棚の手帳。楽器。ステレオ。CDとレコード。射し込む朝日が照らす埃越しに見るそれらは、俺に何も語りかけてこない。ただそこにあるだけで、気づけばなくなっていそうなものたちだ。次に目を向けた時なくなっていたとして、俺は悲しくなるのだろうか。なれるのだろうか。
 鼻を啜る。ヨーコのそれに比べ、野太く間抜けに響く。
「わかったよ」
 ヨーコは顔を伏せたままだ。
「就職する。ちゃんとその子を育てられるような仕事をする」
 まだ顔を上げない。
「今日からするよ」
「うん」彼女はようやく顔を上げた。そして傍らに置いた真っ赤なビニール袋を引き寄せ、中から何かを取りだした。
 箱だ。表面には黒い髪の男の、実写とCGの中間のような顔が描かれている。
「まずは形から入らないとね」ヨーコが言った。
 俺は箱を見つめる。こちらを見つめてくる黒髪の男が実写なのかCGなのか見極めてやろうと思ったが、見れば見るほどわからなくなった。そうして生じた気持ちの隙を突いて、現実が流れ込んできた。

 毛染めのにおい、としか言いようのないツンとした刺激臭が鼻を突く。鼻の内側が痺れ、感動したり悲しい時などに流れるのとは違う涙が次々にあふれてくる。

1 2 3 4