小説

『化かされて』斉藤高谷(『にわか入道(埼玉県)』)

 突然来なくなった大学生の代わりに入った夜勤を終えて帰宅すると、ヨーコから「話がある」と言われた。彼女はえらく改まった様子でダイニングテーブルに着いていた。俺はその向かいに座った。テーブルに置かれたドラッグストアの真っ赤なビニール袋を見ながら今日はどう乗り切ろうかと考えていると、彼女が口を開いた。
「大事な話があるの」
「起きてからじゃダメか?」俺はあくび混じりに言った。きのうは夕方からスタジオで練習をして、店長からの急な連絡で夜勤になった。体中が重く、意識もぼやけている。難しいことは考えたくない。
「今日、ていうかきのう、病院行ってきた」
「どっか悪いの?」喉が渇いたと思った。だが、席を立つことは許されない気がした。
 アパートの前の道をトラックが通り過ぎる。震度二ぐらいの地震と間違う程度に揺れを感じる。
「できたみたい」
「できた」予想していた言葉とは違った。「何が」
「赤ちゃん」
「ああ」
 外角いっぱいのストレート。手が出なかった。そんな感覚。
 いくつかの言葉が浮かぶ。で、どうするの? それ、ホントに俺の子? どちらもダメに決まっている。だが、何と言えばいいかわからない。だから「おめでとう」ととぼけて逃げる。
 ヨーコは笑わない。俺の言うことだったら何だって笑っていた彼女はここにはいない。
「生むってなったら会社を休まなければならなくなると思う」
「そうだね」どうする?なんて訊かなくてよかった。
「そうなったら、色々と大変になる。家賃とか」
「そうだね」話の行き着く先が見えてきた。結局いつもの場所だ。「シフト増やすよ。休み減らして」
「それでやっていける? 今だって私のボーナスとか足してギリギリなのに。それにこれから先、この子を育てていくためには今のままじゃ絶対無理だよ。絶対」
 その〈絶対〉には未来を見てきたような響きがあった。五年前、あるレコード会社のオーディションで最終選考まで残った時に言われた「絶対デビューできるよ」にはなかった響きだ。これがラストチャンスと受けたオーディションだったが、あれからもう五年が経つ。ラストどころか、変に味を占めたせいでバンドは今でも続いている。俺もこの有様だ。
 頭を掻く。むしゃくしゃしたのもあるが、単純に痒い。風呂に入りたい。指には根元が黒くなった金髪が二本絡みついている。
「俺が」言いかけて、痰が絡む。何か飲みたい。咳払いして言い直す。「俺がこういうこと続けるって納得した上で付き合い始めたんじゃなかったっけ?」
「あの時は若かったから」

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