小説

『まだまだこれから』ウダ・タマキ(『質おき婆(三重県松阪市)』)

 早苗が車いすから身を乗り出した。 
「そんなん無理よ。私らいくつや思っとるんさ。みんなに言ったらきっと反対されるわ」
「相変わらず佳子は真面目ね。だから、抜け出すのよ。あの夏の日と同じようにね」
 声を潜めた裕美子が片目をパチリと閉じた。私は戸惑いながらも胸が高鳴るのを感じた。
 
 残暑の頃も過ぎ、朝晩には涼しさを感じるようになった。外出するのに相応しい季節である。
 あれから私達は入念に計画を立てた。とはいえ、情報源は専ら裕美子が駆使するスマホで、求めるものはバリアフリーのトイレ、エレベーターの位置、スロープの有無といったもの。どこのランチやスイーツが美味しいかなんていう情報は二の次だった。たかが県内への日帰り旅行であるが、合計二百二十五歳にもなる私達には、無事にお伊勢参りを終えて帰って来れるかどうかさえ命懸けなのである。
 出発の朝は快晴に恵まれた。私達は天啓池公園まで散歩に行くと告げたが、それでも「随分と遠くまで!」と驚かれた。
 向かうは相可駅。裕美子が早苗の車いすを押し、私はほとんど地面と触れることのない杖を念のため右手に握っている。
 収穫の時を待つ稲穂が風に揺れ、その間を縫うように続く道を自転車で疾走する高校生の姿があった。変わらない景色に時が戻った気がした。
 通学時間を終えた電車内は空いていた。キャピキャピとは形容し難いが、楽しそうに話す私達に、向かいに座る一人の老女が声をかけてきた。
「皆さん若くて元気やな」
「まぁ、若いなんて。私ら全員後期高齢者ですよ」
「若い若い。うちは今年で九十四さ。あんたらなんか、まだまだやに」
 早苗の言葉に老女が優しい笑みを浮かべてそう言った。
「若いなんて言われたの、いつぶりかしらね」
 私達は互いに顔を見合わせて笑った。この旅は楽しくなりそうだ。
 多気駅で参宮線に乗り換え、伊勢市駅へと向かう。車窓から見える田丸城跡のお堀には鴨の親子の姿があった。宮川を越える時には、窓に額をつけて穏やかな流れを眺めた。そして、街並みは賑やかになり、ついに伊勢へと辿り着いた。
 駅前から外宮へと続く参道の両側には土産物屋が建ち並び、多くの人が行き交っている。私達も随分と遠くからやって来た観光客の気分だった。
「今日は時間が無いから、このまま内宮に行くね」
 私がバス停を指差すと、「一泊くらいしたら良かったわぁ」と早苗。
「次はそうしよっか!」
 裕美子の言葉に私達は大きく頷いた。
 バス停に座る私達の頬を心地よい風が撫でる。
 背後から「お前達、学校はどうした?」と、あの太い声が聞こえてきそうな気がした。しかし、早苗の父さんはもういない。私の両親も三ツ矢先生だっていない。そんなことを考えていると少し寂しい気持ちに襲われたが、隣にいる二人の横顔を見ると、なんとも愛おしくて仕方なかった。

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