小説

『大阪アルプス』香久山ゆみ(『天保山の故事(大阪)』)

「ちなみに、天保山は天保2年に造られた人工の山で、先に登った山は同じく人工の山で昭和45年に造られたから、天保山にあやかって昭和山と名付けられてんで」
「え。なんでそんなに詳しいんですか」
「さっきスマホで調べた」
 先輩が渾身のどや顔でふんぞり返る。「隙のないようでいて詰めが甘いのが可愛いとこやな」と、また頭に手を伸ばしてきたので、さっと避ける。「おお、成長しとるなー」なぜか喜んではる。
「あ。今19時前か。まだいけるな」
 先輩が突然声を上げる。
「急ぐぞ」
 そう言って、ぐいぐい歩き始める。どこへ行く気なのか。私の計画では天保山がゴールなんですけど。
 小走りで必死に先輩の背中を追って、海遊館の脇を通り、大阪港の堤防を行く。
「間に合った!」
 突堤に至る。「大阪港ダイヤモンドポイント」と看板が出ている。大阪港でもっとも夕陽の美しい場所だと。私ははぁはぁ呼吸しながら顔を上げる。真っ赤な夕陽がちょうど水平線に触れようとしている。何組かのカップルが寄り添うように海を眺めている。
「クライアントの期待の上をいくのができる営業員やからな」
 夕陽を受けて先輩の顔が真っ赤に染まる。表情がよく見えない。私はまだ息が整わない。どくどくと、自分の心臓の鼓動がやかましい。
 手摺りに凭れる先輩の隣に並ぶ。
「どうや?」
 真っ直ぐに夕陽を見つめて先輩が言う。
「……疲れました」
「そうか、悪かったな。きれいな景色見せてやりたいと思ってんけどな」
「はい。めっちゃきれいです」
 二人でじっと海を見る。先輩の意を量りかねる。それは、私だから連れてきてくれたのか。太陽は思っているよりも早足で沈んでいく。
「なんか、先輩昔からそんなおせっかいでしたっけ」
 ふざけた調子で聞いてみる。
 先輩は、まっすぐ赤い世界を向いたままぽつりと言った。
「前に、直属の後輩が悩んどった時に、おれ助けてやられへんかったから……」
 もう二度とあんな思いしたくないんや。見上げても先輩の表情は見えない。ただ、静かな声がはっきりと耳に届いた。
 ああ、だから。
「なあ、大丈夫か。お前なんか困ってへんか」
 こちらを向いた先輩がいつもと同じ調子で言う。大丈夫です。といつもの調子で出そうになる言葉を飲み込む。体の底の、ずっと底の方から、本音を絞り出してみる。
「……ちょっと、大丈夫じゃない、です」

1 2 3 4 5