小説

『うたかた』観月(『人魚姫』)

 歌が止まり、突如人魚たちの桜色の唇が捲れ上がった。耳元まで裂けた口には鋸歯状の歯が並び、かっと見開かれた目は墨色に染まる。白く滑らかだった肌は青黒く光りだし、餓鬼のように関節が浮き上がっていた。
 ――そして。
 落ちてきた人間に一斉に襲い掛かった。
 何匹もの人魚が群がり、散った後には骨一つ残らない。
 食いちぎられた箇所からはおびただしい血が吹き出しているのだろうが、荒れる波に霧散した。

 群れの輪の外で、リュリは姉と二人で仲間たちの狩りの様子を眺めていた。
「さあリュリ、私たちも行くわよ」
 姉に声をかけられたが、リュリは首を振ることしかできなかった。
「人魚はね、若いまま長く生きられるけれど、食べなくては力が弱まってしまうのよ?」
姉はため息をついた。
「まったく、そんなだからお前はいつまでも痩せっぽっちなのよ」
 そう言うと、瞬く間に恐ろしい形相に変化し、仲間たちのもとへと泳ぎ去ってしまった。
 リュリは「やめて!」と叫んだが、声は嵐にかき消されてしまう。
 その間にも、人間たちは船上から海面へと降り続けていた。
「……!」
 突然リュリの目前を人間がかすめた。あまりの驚きにリュリは一瞬硬直したが、すぐに手を伸ばして抱き留めた。
 初めて間近に見た人間は、子どもっぽさの残る青年だった。
 白いシャツにビロードの上着。
 なんてかわいらしい人なんだろう。
 抱きしめた腕に仄かな温かさが伝わった。
 しかし、ぼうっと見つめるリュリの腕の中で、青年はごぼごぼともがき始めた。

2、なみ
 暗い水底に、小さな家が建っていた。貝や珊瑚で出来た家は、それ自体がうっすらと光を放っている。
 家の中では藍染の襤褸の着物を纏った少女が、魔法の鏡をのぞいていた。
 鏡の中には、抱きかかえた若者を海面へ押し上げようとするリュリの姿と、その奥で繰り広げられる人魚たちの凄惨な食事風景が映っていた。
「せっかくいい月夜だったのに、台無しね」
 少女の指が鏡面を滑ると、映し出されていた光景は消えた。
 代わりに映るのは、少女自身の顔である。
 痩せた頬に吊り上った大きな目。頭のてっぺんで結わえた黒髪が四方に散っている。着物の合わせから伸びるのは、魚のしっぽだ。
「あの子、どうすると思う?」
 突然聞こえただみ声に、少女は周囲を見回した。
 すぐ隣で、吸盤のついた八本足の足をくねらせ、タコがこちらを見上げている。
「いつの間に入り込んだのよ!」
 少女は腕組みをしてタコを見下ろした。
「今頃気が付くなんて、藍色の魔女の名前が泣くね」
 タコはひしゃげた笑い声をあげた。

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