小説

『歩み』ウダ・タマキ(『うさぎとかめ』)

 人より何倍も早く、多く動くことが時代の先を行くものだと信じてきた。その俺が、これから当たり前の日常を取り戻す努力をせねばならぬとは。俺の歩みを止める者が、まさか己だとは思わなかった。
 立ち上がること、歩くこと、食事を摂ること……まるで、四十年の月日を遡り、これから人生を歩んでいくための技術を習得する赤子の如くリハビリが開始された。情けなくて仕方ない。
「ゆっくりと頭を前に出して重心を傾けるイメージで立ち上がりましょう、いちにっさん!」
 ひと回りも年下の若造に言われるがまま、体を動かす。が、力なく崩れ落ちそうになる。
「おっと、危ない。もう少し左足に力を入れましょうか」
 俺の顔を覗き込んだ若造の、その憐憫の眼差しが憎かった。
「ぐだあない!」
「くだらないじゃなくて、頑張らないといつまで経っても歩けませんよ」
 励ましではない。呆れた口調だった。
 俺は自暴自棄になった。歩けなくても、ろくに喋れなくても金さえあれば何でもできる。出社しなくてもウェブで会議も商談もできる。喋れなくてもメールでやりとりすればいい、指示を出せばいい。こんな奴らに俺の将来を案じられる必要など一切ない。

「梶原さん、どうされましたか! 大丈夫ですか! すぐに行きますからね!」

 トイレの冷えた床に頬をあて、己の体重に押し潰されそうになり苦悶する。このまま命尽きても構わぬと、思いながら悔し涙を流す俺がいた。

「トイレの時はコールして下さいね。紙パンツも履いてるんですから、焦らなくてもなくていいですよ」

 脳梗塞の後遺症として、右半身麻痺と言語障害が残った。誰かの手を借りなければ生命を維持することさえ難しい。金さえあればなんとかなると強気でいたが、金だけでは解決できないものが存在することを今さらになって知る。一人寂しく過ごす個室で、とてつもなく大きな虚無感が俺を襲う。

 夢を見た―
 果てしなく広がる荒野には冷たい風が吹き抜けている。振り返ると先の見えない道が続く。前方には険しい岩山が聳え立ち、九十九折になった道がへばりついている。「これを、行かなきゃならないのか……」と、絶望に打ちひしがれる俺の視界前方を、猛烈な勢いで駆けていく『俺』がいた。手も、足も、何事もなかったかのように動いている。その俺は、俺を振り返り「早くしろって、時間の無駄だろ?」と右側の口角を上げ、冷たい口調で言った。蔑むような視線を向けながら。
 俺だけじゃない。経営者仲間や競合他社の奴ら、部下たちまで。次々と俺を追い抜き、引き離していく。そして、岩山に挑んでいく。
 俺はその様子を呆然と眺めていた。前を行く奴らが妬ましかった。

 不快な感情に包まれて、目覚めた朝に知らされた会社存続の危機。これまで信頼されてきたと思っていた社員たちが、俺の呪縛から解き放たれたように次々と去っていった。

 そして、全てを失った。

 これまでの生活は一変し、時間を持て余すようになった。停滞する日々。ベッド上で左手を駆使して覗き見るSNSには、華々しい写真が並ぶ。俺も「会社潰れました!」なんて病衣で着飾った写真付きで近況報告でもするか? 

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