小説

『自尊の果て』川瀬えいみ(『山月記』)

 李徴が、己の誇りを保ったまま生き続けるには、その道しかなかったのだ。虎が鼠や雀を捕えて食らうのは惨めなことだが、猫ならば、それは王者の振舞いとなる。
 ところが李徴の才は、猫としても下の下。狩りの技術は、虎であった時同様、全く身についておらず、身体能力も相変わらず低い。
 鼠や雀は、水牛や猪ほど屈強でない分、すばしこい。とても李徴に捕らえられる獲物ではなかった。
 人間に愛想を振り撒き、媚びへつらって食べ物を恵んでもらうこともできるのだが、それは嵩岳寺塔より高い彼の自尊心が許さなかったのである。李徴は、結局、人間が捨てる残飯をこそこそと漁って、命を繋ぐしかなかった。

 猫の李徴はいつも腹を空かせていた。体は痩せ細り、毛並みも悪い。
 鄭州の町で最も弱々しくみすぼらしい猫。それが李徴だった。
 雌猫たちはそんな李徴を見下し、見向きもしない。鄭州の町の猫たちは皆、李徴を蔑んでいるようだった。李徴にはそう思われた。
 そんな場所で、誇り高い李徴は、猫であり続けることができなかったのである。

 
 鄭州の町で猫として生き続けることができなくなった李徴は、鄭州の西に広がる穀倉地帯に赴き、そこで鼠になった。
 李徴が、己の誇りを保ったまま生き続けるには、その道しかなかったのだ。穀物や果実を主食とするクマネズミなら、狩りをして命を繋ぐ必要がない。
 ところが、李徴の才は鼠としても下の下。
 嗅覚はあっても、それが何の匂いなのかわからず、髭や尻尾の使い方も知らない。他の鼠たちに教えを乞うことも、李徴にはできない。その上、土や埃で汚れるのが嫌なので、畑や野原で草の種や木の実を探すことも、李徴には上手くできなかったのである。
 李徴は、結局、人間が穀物を貯蔵している蔵に忍び込み、こそこそと米や豆を盗み食いして、命を繋ぐしかなかった。

 仲間を作らず、仲間に頼らず、己一人で。
 鼠の李徴の生き方は、人でいた時、虎でいた時、猫でいた時と同じだったのだが、鼠の李徴の暮らしには、これまでの暮らしと大きく違うことが一つあった。
 鼠になった李徴は、飢えとは無縁の暮らしができるようになったのである。人間の穀物蔵には、李徴が一生かかっても食べきれないほど大量の穀物が蓄えられていたのだ。畑や野原に落ちている草の種や木の実とは異なり、綺麗で甘くて栄養たっぷりの米や豆が山のように。
 毎晩、上等なものを食べているので、李徴は丸々と肥え太り、毛並みはつやつや。河南の穀倉地帯で最も肉付きがよく、動きの鈍い鼠。それが李徴だった。

 そんな李徴がいつか人間に見付かり捕まってしまうのではないかと、近隣に住む鼠たちはひどく心配していた。

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