小説

『恋のかたみ』和織(『春の夜』)

「正確には、松村清という存在を自分から切り離すかどうかを、です」
「え?どうして、自分を・・・」
「あなたに、その準備ができているかどうかが、わからないから」
「・・・・・は?」
 直美は、口を開けたまま首を傾げてしまう。
「最初に、幸田さんはご自分でおっしゃいました。松村さんは、「自分を山田竜太郎だと思っていること以外は全く正常だ」と」
「ええ」
「私はお教えしました。異常なのは「お二人の状況」だけだと」
 輪賀の言おうとしていることの意味を計りかねて、直美はただ顔をしかめた。得体のしれない嫌な予感が、自分に近づいてくるような気がした。
「幸田さん、看護師をなさっていた頃の記憶が曖昧だそうですね?」
「え・・・どうして今、そんな話をするんですか?」
「大きなショックによって、そいうことが起こるのは、珍しくありません」
「ショックなんて・・・ただ、自分があの仕事に対応できる人間でなかっただけです。私のことは、いいですから・・・・」
「看護師をお辞めになった日に、あなたはコンビニで、店員の松村さんから声をかけられた。それが、お付き合いのきっかけでしたよね?」
「それが何ですか?今そんな話──」
「それは本当に松村さんでしたか?」
「・・・え?」
「幸田さん、あなたの恋人は、初めから今も、ご自分を一人の人間だと思っています。彼を二人にしたのは、あなたなんです」
 そう言った輪賀の目が、それまでと別人のように見えた。いつもの柔らかい眼差しが消え、そこには黒々とした、刺すような光が灯っている。
「「竜太郎」と呼んで、振り返ったのは、誰でしたか?」
 彼の声が頭の中で響くのを、直美は感じた。言葉を失い、しばらくただ輪賀の目を見つめていた。誰って、清に決まってる。でも、どうしてそれを言葉にすることができないのだろう?輪賀から、目を逸らすことができない。その目を起点にして、部屋が揺れていた。いや、少しづつ、歪んでいった。時計が、ダリの画のようになって、ああ、時間て柔らかいものだったのか、なんてことを彼女は考えた。輪賀の目だけが、ブレずにそこに、まるで彼女を見張っているように浮かんでいて、それがかろうじて自分を地面に貼り付けにしているようだと、直美は思った。
 「竜太郎」と呼んで振り返ったのは、誰だったか?
 グラグラの記憶を、直美は振り返る。誰だったんだろう、あれは。いや、どうしてそんなことを考える必要があるんだろう?だってあれは、清・・・・・では、なかった?そうだ、清じゃなかった。でも、どうしてそれを忘れてしまったんだろう?それに多分、自分はあの彼を知っている。あれは・・・・・誰だったっけ?
「あの日、コンビニであなたに声をかけたのは、誰でしたか?」

1 2 3 4