小説

『恋のかたみ』和織(『春の夜』)

 幸田直美はその日、とても疲れていた。看護師という職業に対応できなかった自分が情けなくて、忘れたいことしか持ち合わせていない、昨日も今日も明日も区別のつかなくなった自分に、心底がっかりしていた。何もできなかった、そう思い込んで、暗い逃げ道へ、吸い込まれるように入って行こうとしていた。
「・・・ちゃんと寝てますか?」
 買い物かごをレジに置くと、レジ打ちの途中で、向かいの人物がそう声をかけてきた。直美はこのコンビニの常連なので、その彼のことはよく見かけていた。黙ったまま子供のように見上げると、相手はこう続けた。
「なんか疲れてるみたいですけど」
 どうして?という言葉が、彼女の頭の中で警鐘のように鳴り、暗い場所へ進もうとしていた直美の足を止めた。彼女はふと、ネームプレートを見る。「松村」とあった。松村さんか、松村さんはどうして、こんな自分を気にかけてくれるんだろう?そう思った瞬間、急にその彼の姿を懐かしいと感じた。前から彼を、知っているような気がした。

 

 平穏だった暮らしに、突然降ってきたように影が落ちたのは、直美が松村清と同棲を初めて一年が過ぎようとしていた頃だった。あのコンビニでの夜の出来事をきっかけに二人は付き合うことになり、彼がいることによって、それまでの直美の負の記憶は、波が引くようにどんどん遠くなっていった。だから彼のその急な変化に、直美は心底驚いた。そして驚きと同じ分、動揺した。
 松村清はある日、「自分は山田竜太郎というもう一人の人間でもある」、と言い出したのだった。
「最近、「清」と呼んでも反応しないことが増えてきて、ときどき「竜太郎」って呼んでみるんでるけど、そうするとすぐにこっちを見るんです。このまま、自分の本当の名前を忘れてしまうってことが、どんどん現実味を帯びていく感じがします」
 精神科医の輪賀卓亞に、直美はそう言った。輪賀の元に通い始めて、二ヶ月が過ぎようとしている。焦ってはいけないと忠告されているものの、こうして清の診察の後に話をする度に、その進展の無さに、直美はがっかりしてしまう。
 清の症状は良くなるどころか少し悪化しているように見えた。けれどやっかいなことに、その「山田竜太郎」は、清と人格が違う訳でも何でもない。清はだた自分を「山田竜太郎」だと言うだけで、それ以外に彼自身に何も変化がないので、生活が大きく変わったとか、誰に迷惑がかるということもない。だからこの症状が悪化したとしても、付き合っていくのはそれほど苦ではないだろうと直美は想像できた。だた、原因がわからないというのが、怖かった。
「彼はまだ、迷っている状態です。今までもずっと迷っていて、その迷っている期間が長ければ長い程、きっかけに辿り着く為のドアも、それを開く決断をする回数も、増えていってしまいます」
 輪賀が、なめらかな音でゆっくりとそう言った。輪賀は、年齢の割に白髪が多い。顔だけ見ると大学生のようなのに、話し始めるとその雰囲気は白髪の方と合致する。初めて彼に会ったとき、そのあべこべな印象に、直美も清も違和感を覚えた。
「迷っているって、どちらの名前を選ぶかを、ですか?」

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