小説

『恋のかたみ』和織(『春の夜』)

 輪賀の声が、不安定な世界の中で反響し、直美はそれを気持ち悪いと感じた。そのとき突然、「山田」というネームプレートを付けた誰かの映像が浮かぶ。山田?そんな筈はない。あれは松村清だった。彼はコンビニで働いていて、あの日、落ち込んでいた自分に、声をかけてくれたのだ。心配そうに、「ちゃんと寝ますか?」と。

『幸田さん、ちゃんと寝てますか?』

 あれ?違う・・・・・。病院だ。白とグレーの、あの個室。そう、彼はベッドにいた。重力に逆らう力を奪われ、最初から最後までベッドの上だった。白い肌、小枝のような細い腕。長年の闘病生活によって疲れ果てた家族に、厄介者扱いされるようになって染みついてしまった、憂いの表情。その顔で、いつも笑っていた。痛ければ痛い程、苦しければ苦しい程、見ているこちらを気にかけて、笑っていた。
『僕、コンビニで働いてみたいんです』
 突然、松村清がそう言って、直美は驚いた。彼が何かをしてみたいなんて話をするのは、初めてのことだったからだ。
『どうしてコンビニなんですか?』
『なんかいろいろな物がぎゅっと詰め込まれてて、楽しそうじゃないですか?あの空間の中に一体どれだけのものがあるんだろうって考えると、面白い』
『その分仕事がたくさんあるってことじゃないですか。ちょっと、窓、開けますね』
『ああ、まぁ、大変そうではありますね。でも、大変て普通ですよね。看護師さんだって、大変でしょう?幸田さん、ちゃんと寝てますか?』
『え?』
『なんか疲れてるみたいですけど』
 彼の言葉に、直美は振り返り、天井を見上げるその横顔をしばらく見つめた。目が合うことだって滅多にないのに、どうして自分のことがわかったのだろうと、不思議に感じた。
『駄目ですね、患者さんに心配させるようじゃ』
『心配くらい、させてくれてもいいでしょう。寝たきりだと、そのくらいしかできることはないですから』
 窓から入る風を受けて、清は気持ちよさそに目を閉じた。そういうときが、一番幸せそうだった。「いつか働けるといいですね、コンビニで」という言葉を、直美は心の中にしまった。それは彼にとって、夢ですらないとわかっていたから。ただのイメージ。暇つぶしに、たまにしてみる妄想。でもそれはいつからか、直美自身の夢になった。コンビニで楽しそうに働く彼、それが叶うことを願った。そしてその夢が、清の死を拒絶し続けた。だって、あんまりだった。あんなにやさしい人が、あんな、辛いことばかり詰め込まれたような人生を・・・・・
「どうしてあんな人生を、あの人に与えたの?」
「そう思わせるのはあなたの愛情です」
 涙を流す直美に、輪賀がそう言った。すると歪みが時計の中へ吸い込まれるように消え、世界が元通りになった。
「遅かれ早かれ、あなたはお二人のことを思い出しただろうと、私は思います。やはり、無意識に罪悪感を抱いていたのでしょう。あなたは、人を傷つけ続けることに耐えられるような人間ではありません」

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