小説

『森の香りの人』小山ラム子(『檸檬』)

 ころん、と。
 目の前を透明な瓶が転がっていく。反射的にそれを拾って、拾ったからには落とし主に届けなきゃなあと思い耳につめたイヤホンを片方とりつつ前を行く女性を追いかける。
「あの、すみません」
 道行く人と挨拶をしたくないがためにイヤホンをつけているような、そんな自分にしてはおおきな声がでた。その甲斐もあって女性はすぐに振り向いた。
「これ、落としました」
 怪訝な表情で振り向いた女性は、わたしが差し出した小瓶を見てパッと顔をほころばせた。
「ありがとうございます!」
「いえ、あの、それ何がはいってるんですか」
 女性の感謝の言葉はわたしの心にダイレクトに響き、気がおおきくなったわたしはついそんなことを聞いてしまった。しまった、と思ったのはその女性が「あ、いや、これはその」とうろたえはじめたからであった。
 その女性は自分よりは年上であるだろうが若かった。二十代前半くらいだろうか。薄いピンク色のスプリングコートに、ライトグリーンのストールが春を先取りしていて遠目にみたときから「きれいだな」となんとなく目で追っていた。真正面からみるとかわいらしい、の方が当てはまる。
ふんわりとしたミディアムロングの髪の毛は、日に当たって微かにグレーがかっている。グレージュ、というカラーだろうか。クラスのおしゃれな女子達が教室で言っていたのを聞いて、後でこっそりスマフォで調べてみたときに表示された画像の一つにこのくらいの色があった。
 振り向いた姿を見てみたいとは思っていたがまさかこんな近くで叶うとは。だけどこんな狼狽する様子を見たいわけではなかった。
「あ、いや、別に大丈夫です」
気まずくなって、あいまいに微笑んでから一礼する。
「あの、これ! お酒なの!」
 通りすぎようかと思ったが女性が声をあげたので足を止めた。
「あ、お酒、ですか」
「ちがうのちがうの! 飲むんじゃなくて、香りをかぐの!」
 わたしはお酒を飲んでいい年ではない。お父さんが毎日缶ビールを飲んでいるが「試しに飲んでみるか?」なんて言われたこともない。それに文化祭の打ち上げなんかで羽目を外して飲酒してしまうタイプでもない。
 だから味も分からないし、香りを楽しむなんていうさらに上級者な感覚はちっとも分からなかった。
「だから飲酒運転なんてしないから大丈夫ですよ!」
ああ、そっちの心配か、と合点がいった。自分が住むのはこの公園の近所だし、運転もできないのでその発想はしていなかった。

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